荒木田守武
あらきだ もりたけ
1473〜1549
伊勢内宮(ないくう)禰宜(ねぎ)守秀の子で神道家・連歌師・俳諧師として活躍。和歌や連歌に堪能で「伊勢論語」と呼ばれる「世中百首」や「合点之句」を著し、後世の俳諧発達の素地を作った。山崎宗鑑・松永貞徳とともに俳諧の三神と称される。
安国寺恵瓊
あんこくじ えけい
? 〜1600
佐藤銀山城を本拠とする安芸の名族武田氏の一族・武田信重の子で、後に毛利家の外交担当となった臨済僧。信長の奇禍を予言したことで知られる。秀吉との備中高松城対峙の際に活躍、後には秀吉麾下の大名となる。東福寺住職も務めたが関ヶ原で敗れ、三成らとともに三条河原で斬首された。
一雲斎針阿弥
いちうんさい しんあみ
? 〜1582
織田信長の吏僚を務めた同朋衆で、出身は不明。楠長諳の書状に副状を出していたことが記録にある。本能寺の変の際に信長の近習たちとともに殉じた。
一条内基
いちじょう うちもと
1548〜1611
五摂家のひとつ、一条家の公家。関白一条房通の二男。若くして次々と官位を登り1581年に関白に任ぜられるが、3年後にその職を辞した。
今井宗久
いまい そうきゅう
1520〜1593
出身は近江とも大和ともいわれる堺の商人で、信長と堺衆が対立したときに津田宗及とともに町衆を説得、武力衝突を回避した。以後信長の信頼を得て鉄砲・弾薬の製造に乗り出し巨富を築く。武野紹鴎の門下で女婿、茶道三宗匠の一人として知られる。
正親町天皇
おおぎまちてんのう
1517〜1593
後奈良天皇の第二皇子で第106代天皇。諱は方仁で在位期間は1557〜86年。毛利元就の献金により即位の礼を執り行い、応仁の乱以後途絶えていた諸儀式を復活させた。
太田牛一
おおた うしかず
1527〜 ?
通称又助、和泉守。はじめ柴田勝家の家臣であったが、弓術の技を認められて信長の直臣となる。その愚直とも言われる性格で書きつづった著書「信長公記」は、信長はもとより戦国期の研究には欠かせない当時の一級資料として知られる。
小瀬甫庵
おぜ ほあん
1565〜1640
名は道喜といい、はじめ豊臣秀次に医術で仕え、後に宇喜多秀家、堀尾吉晴と仕えた。吉晴歿後は浪人したが、この間「太閤記」と太田牛一の「信長公記」を自分流に書き直した「信長記」を著した。
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