長谷川宗仁
はせがわ そうにん
1539〜1606
堺の商人とも言われるが詳細は不明。画家や茶人としても知られる。はじめ信長に仕え、本能寺の変の際にはいち早く飛脚を走らせ、これを備中の羽柴秀吉に通報した。後に秀吉の下で直轄領の代官など吏僚として活躍したという。
長谷川等伯
はせがわ とうはく
1539〜1610
能登七尾の出身で、本姓は奥村と伝えられる。水墨画の大家・雪舟五代を自称した画家。当時の主流であった狩野派とは異なった画風・長谷川派の祖となり、画壇に多大な影響を与えた。「松林図屏風」や「楓図」で名高い。
八条宮智仁親王
はちじょうのみやともひとしんのう
1579〜1629
誠仁親王の第五皇子で後陽成天皇の弟宮にあたる。祖父は正親町天皇。桂宮または桂光院と呼ばれ、後に豊臣秀吉の猶子となり、桂離宮を贈られたことで知られている。
林羅山
はやし らざん
1583〜1657
多数の号をもって呼ばれるが、中でも「道春」の名で広く知られている。藤原惺窩門より出た朱子学の大家で、徳川家康の信任が厚く金地院崇伝と共に黒幕的存在といわれた。豊臣家を滅亡させるきっかけとなった方広寺鐘名事件のこじつけ解釈は、羅山が中心となってなされたという。
伏見宮貞康親王
ふしみのみやさだやすしんのう
1547〜1568
伏見宮第八代当主で邦輔親王の第四皇子。正親町天皇の猶子となり、親王宣下を受けた。歌集「貞康親王百首」を著したが、若くして世を去った。
藤原惺窩
ふじわら せいか
1561〜1619
播磨細川庄の生まれで冷泉為純の二男。近世儒学の大家で、徳川家康や後陽成天皇に儒学を進講した。門下に石田三成をはじめ多数の大名や公家を持つ。
文之玄昌
ぶんし げんしょう
1555〜1620
島津義久・義弘・家久に仕えた学僧。号は南浦、別に懶雪・狂雲とも号す。弘治元年に日向国飫肥南郷の外浦に生まれ、加治木安国寺・国分正興寺住職を経て鹿児島大龍寺の開山となる。島津家の政治や外交などにも関与し、文教の振興に努めた。鉄砲の伝来を記した「鉄砲記」(「南浦文集」所収)の撰者としても知られ、「南浦文書」「日州平治記」などを著した。
鳳山和尚
ほうさん おしょう
生没年不詳
島津家に仕えた学僧。明釣と号す。山川に生まれ、文禄役の際には島津家の陣僧として従軍、義弘の命令や手紙はすべて鳳山の手になったといわれる。帰国後は禄高三十石を与えられ大隅椿窓寺中興の開山となり、晩年は黒川岬の鳳山軒で過ごした。ここで家久が詠んだ「浪のおりかへる錦は磯山の梢にさらす花のいろかな」から鹿児島湾の別称・錦江湾の名が起こったとも言われる。
牡丹花肖柏
ぼたんか しょうはく
1443〜1527
中院通淳の子と伝える連歌師また歌人で夢庵、弄花軒と号す。連歌を宗祗に、和歌を飛鳥井雅親に、古典を三条西実隆に学ぶ。応仁の乱前後から摂津池田に住み、晩年堺の紅谷庵に移り住んだ。宗祇から古今伝授を受け(堺伝授)、これを南都の饅頭屋林宗二に伝えた(奈良伝授)。角に金箔を塗った牛に乗って往来したといわれる一方、花を弄び、香りにこだわり、酒を愛したという風流人。
本願寺光教
ほんがんじ こうきょう
1516〜1554
証如上人。浄土真宗石山本願寺第九代実如の孫。父円如が早く没したため十歳で第十代宗主となり、大永七年には前関白九条尚経の猶子となった。天文元年に日蓮宗徒と六角定頼により山科本願寺が焼かれ、以後大坂石山本願寺へ本拠を移す。上杉謙信・尼子晴久・大内義隆らと親交を結び、勢力を拡大した。
本願寺光佐
ほんがんじ こうさ
1543〜1592
顕如上人。浄土真宗石山本願寺第十代証如の子で第十一代宗主。戦国期の反信長勢力の中心的存在で、十年間にわたる石山戦争で信長と互角に渡り合ったが、ついには正親町天皇の勅命を受け降伏に近い和睦。後に秀吉の命で寺を大坂から京七条堀川に移した。
本願寺光寿
ほんがんじ こうじゅ
1558〜1614
教如上人。顕如の子で本願寺第十二代宗主。石山合戦の際には最後まで抗戦を主張し和睦に反対したという。秀吉に対抗し、為に本願寺は東西に割れた。
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