快川紹喜
かいせん じょうき
 ? 〜1582
美濃土岐氏一族の出自とされる臨済宗関山派の僧侶で、斎藤義龍と宗派問題で対立し尾張を経て甲斐恵林寺に移る。1582年織田信長の甲斐攻めの際、寺内に匿っていた六角義治の引き渡しを拒否したため寺に放火され、「心頭滅却すれば火もおのずから涼し」の言葉を残して端然と座ったまま焼け死んだ。

海北友松
かいほう ゆうしょう
1533〜1615
浅井家の勇将・海北綱親の子で狩野元信に師事した画家。浅井家滅亡時には京にあったため難を逃れた。明智光秀の臣・斎藤利三と親交があり、山崎合戦後に彼が京・粟田口で梟首されたとき敢然と番士に襲いかかって首を奪い、真如堂に丁重に葬ったという。

勧修寺晴豊
かじゅうじ はれとよ
1544〜1602
晴右の子で大納言。1576年以降、父晴右の跡を継いで信長・秀吉時代の武家伝奏を務めた。信長と本願寺との間に起きた石山合戦では正親町天皇との間に立って奔走、和平調停を成立させた。「晴豊公記」の作者としても知られる。

加藤浄与
かとう じょうよ
生没年不詳
京都西陣の呉服屋で、屋号は武蔵屋伊兵衛。元は加藤数馬と名乗り仙台伊達家の士であったが、叔父に関わる不祥事から主家を致仕、京都で呉服屋を始めたという。石田三成の家老島左近とは遠縁に当たるとされ、関ヶ原合戦後には左近の娘・珠を養育したという。この珠は後に柳生兵庫介利厳の側室となり、連也斎厳包を生んだ。

神屋宗湛
かみや そうたん
1553〜1635
紹策の子で豊臣秀吉に目を掛けられた博多の豪商。博多を拠点に銀を独占して海外貿易を行い、巨万の富を築いた。茶人としても高名で、秀吉から所望されても断ったという名物唐物茶入・博多文琳を所持。北野大茶会では遅刻して周囲をやきもきさせたが秀吉は笑って許したという。文禄・慶長の役の際は兵糧の調達に奔走して秀吉に協力するが、関ヶ原合戦後には黒田藩の御用商人となった。著書に「神屋宗湛日記」がある。

北向道陳
きたむき どうちん
1504〜1562
本姓は荒木氏。堺の舳松(へのまつ)町北向に住む茶人で千利休の師匠。本職は医師であろうとされる。空海(島右京)に茶を学び、唐物の目利きに優れた。利休がまだ与四郎と名乗っていた頃に武野紹鴎に引き合わせたと伝えられる。

金官
きんかん
 ? 〜1611
朝鮮王子の小侍郎。金官は職称で本名は良甫鑑。文禄役の際に加藤清正に捕らえられ、咸鏡道の道案内を務めた。清正を慕い、帰国に同行して日本に帰化。のち二百石を与えられ近習として仕える。清正の没後程なく殉死した。

楠 長諳
くすのき ちょうあん
1520〜1596
前名は大饗(おおあえ)長左右衛門尉正虎で河内守、式部卿法印を称す。もと松永久秀の右筆として知られ、祖の楠木正成が朝敵だったことから、その赦免を正親町天皇に願い出て許された。後に信長・秀吉にも右筆として仕えた。

光浄院暹慶
こうじょういん せんけい
1536〜1612
俗名は山岡景友。近江勢多(瀬田)城主・山岡景隆の実弟。圓城寺(おんじょうじ=三井寺)に僧籍を起く足利義昭の家臣として織田信長と戦うが、柴田勝家に石山砦を落とされ降伏、還俗して山岡景友に戻る。秀吉には御咄衆・道阿弥として仕え、後に家康の下で旗本として残った。

古渓宗陳
こけい そうちん
1515〜1597
別号蒲菴、京都大徳寺百十七代住持。大慈広照禅師。越前朝倉氏の一族に生まれ、出家後足利学校で学ぶ。秀吉が信長の菩提を弔うため総見院を建立した際には開山となり、豊臣秀長の葬儀では導師を務めた。

後藤光次
ごとう みつつぐ
1571〜1625
徳川家康の家臣で御金改役を務めた金工家。旧姓は山崎、通称庄三郎。秀吉の金子吹座を務めた京都後藤家の当主徳乗の弟子となり、のち光乗の養子となる。徳川家の金座統括役ながら、大坂の陣の際には本多正純とともに大坂方大野治長との交渉の席につき、講和に尽力。落城後は城内の金銀の接収にあたったという。

近衛前久
このえ さきひさ
1536〜1612
五摂家筆頭の近衛稙家の嫡子に生まれ、関白・左大臣に任ぜられて晴嗣・前嗣・前久の順に改名、後に龍山を称す。1568年足利義昭と対立して出奔、関白職を罷免された。「放浪関白」などといわれたが歌道・書道に長じ、京文化の地方伝播に貢献した。晩年は子の信伊と所領問題で不和となり、失意のうちに歿した。

近衛稙家
このえ たねいえ
1503〜1566
五摂家筆頭の近衛家十五代当主、父は近衛尚通。永正十一年元服して公卿に列し、大永五年には関白に任ぜられるが天文二年に辞任、しかし同五年に関白再任と同時に太政大臣に就く。妹が足利義晴の妻であったことから、義晴と共に近江朽木谷へ流寓したりした。

近衛信尹
このえ のぶただ
1565〜1614
前久の子。朝鮮の役の際は秀吉に渡海を求めたため後陽成天皇の怒りに触れ、薩摩に流された。後に許されて帰洛、1605年関白に任ぜられるが、父前久と争い翌年職を辞した。諸芸に堪能で、特に能筆家として知られ「寛永の三筆」の一人に数えられる。

後奈良天皇
ごならてんのう
1496〜1557
後柏原天皇の皇子で第105代天皇。在位期間は1526〜57年。経済的に非常にお困りで、そのため即位式は10年後に行われたほどであった。

後陽成天皇
ごようぜいてんのう
1571〜1617
正親町天皇の孫で諱は和仁。第107代天皇。在位期間は1586〜1611年。関ヶ原前哨戦で細川幽斎が丹後田辺城に籠城した際、勅命を出して幽斎を救ったことで知られる。和歌に非常にご堪能であったと伝えられる。

金地院崇伝
こんちいん すうでん
1569〜1633
家康の黒幕的存在の臨済僧で、以心崇伝ともいう。「黒衣の宰相」と呼ばれ、大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件を仕組んだとされる。また紫衣事件で沢庵を流罪にしたことから世上の人気を失った。

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