永田徳本
ながた とくほん
1513〜1630
武田信虎に永く仕え、甲斐国内で一所に定住せず牛の背に乗って薬を売り歩き、どんな高貴な身分の者にも「一服十八文」を貫き通したと伝えられる戦国放浪の名医。特に貧者には親切で、どこへでも往診したという。

名古屋山三郎
なごや さんざぶろう
生没年不詳
歌舞伎役者。非常な美男子で一説に出雲の阿国の夫といわれるが、実在したかどうかは定かではない。ただ、織田信次の孫で通称久右衛門という同名の蒲生氏郷家臣が実在しているが、彼が歌舞伎役者になったという資料はなく、混同される可能性がある。

南光坊天海
なんこうぼう てんかい
 ? 〜1643
慈眼大師。前身および出自は不明の、徳川家康・秀忠に非常な信任を受けた天台僧。政治などにも関与し、東叡山寛永寺を建立した。家康が東照大権現と呼ばれるのは、天海がその政治力を生かして勅許を実現させたからだといわれている。

二条尹房
にじょう これふさ
1497〜1551
公卿、藤原氏。父は関白尚基。永正十五年に正二位右大臣・関白・氏長者となり、大永二年には従一位に昇る。同五年に関白を辞し、享禄元年には備前へ下向。天文三年に関白職に還任するが、五年に辞す。のち周防の大内義隆のもとへ身を寄せるが、陶隆房(晴賢)の乱に巻き込まれ同地で没した。

二条良豊
にじょう よしとよ
1536〜1551
公卿、藤原氏。関白尹房の二男。天文十八年に正五位下左近衛少将、ついで左近衛中将を任ぜられた。同十九年従三位、二十年には正三位に昇叙。父尹房とともに大内義隆のもとへ身を寄せるが、陶隆房(晴賢)の乱に巻き込まれ同地で没した。

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