策彦周良
さくげん しゅうりょう
1501〜1579
丹波の生まれで別号謙斎、戦国期の臨済僧で数々の優れた漢詩を残した。天竜寺に入り心翁周安に師事、妙智院第三世となる。天文八年には将軍足利義晴の命により二度にわたって明に渡り、その禅文化をもたらした。著書に『初渡集』『再渡集』『南游集』『謙斎詩稿集』などがある。

里村紹巴
さとむら じょうは
1525〜1602
戦国期の連歌師で、本姓は松村氏。連歌師周桂に入門、後に里村昌休の弟子となる。明智光秀や細川幽斎、松永貞徳らと親交があった。連歌史上最後の巨匠と賞賛されたが、後に秀次事件に連座して蟄居。

誠仁親王
さねひとしんのう
1552〜1586
正親町天皇の第一皇子。二条御所に住み、107代天皇になるはずであったが病没。これにより正親町天皇は皇孫和仁親王(後陽成天皇)に譲位した。

三条西実隆
さんじょうにし さねたか
1455〜1537
宗祇から古今の伝授を受けたとされる公家で内大臣。歌道・書道・香道に堪能な学者で、各界を指導した。その門下からは武野紹鴎はじめ優秀な人材を輩出。また、「実隆卿記」の著者としても知られる。。

島井宗室
しまい そうしつ
1539〜1615
博多の豪商で茶人としても高名。名は茂勝。永寿丸という廻船を持ち、対馬を中継地点として中国・朝鮮との貿易で蓄財。宗・松浦・大友氏をはじめ織田信長・豊臣秀吉ともパイプを持った。堺や奈良の茶人とも交流があり、名物・楢柴の茶入れを所有。本能寺の変の際には信長に招かれ同寺に滞在していたが無事に難を逃れたという。朝鮮役の際には小西行長に代わり宗氏とともに折衝役を務めるなど政治面でも活躍した。

角倉了以
すみのくら りょうい
1554〜1614
名は光好で医者吉田宗桂の長男。山城嵯峨の豪商だが家督を弟に譲り河川開削に没頭、優れた技術を開発した。大堰川・富士川・鴨川・高瀬川に船運を開通させたことで知られる。中でも京の高瀬川は私費七万五千両を投じた人工の運河であったという。

千 利休
せんの りきゅう
1522〜1591
堺の納屋衆与兵衛の二男。初め北向道陳のち武野紹鴎に入門してわび茶を学び、これを大成させた千家流茶道の祖。また大徳寺で禅を修得、宗易を名乗る。信長や秀吉の茶頭の第一人者として存在したが、その理想とするところが権力者秀吉と大きく異なり、次第に対立。ついに「大徳寺木像事件」で秀吉と衝突し、切腹を命じられた。

曽呂利新左衛門
そろり しんざえもん
生没年不詳
秀吉の御咄衆で、知恵袋ともいわれた堺の鞘(さや)師。彼の鞘にはソロリと刀が収まったことからこの名がついたという。出身は和泉大鳥郡と伝えられてはいるが、実在したかどうかははっきりしていない。

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