大覚寺義俊
だいかくじ ぎしゅん
 ? 〜1567
関白太政大臣近衛尚通の子で同稙家の弟、前久の叔父に当たる。真言宗大覚寺門跡、摂津四天王寺別当職を務める。才人として知られ、特に連歌には堪能で、紹巴や三条西実隆らと連歌会を催した。朝廷と大名間のパイプ役としても活躍、朝倉義景主催の「曲水の宴」にも列席、上杉・武田・北条氏の和睦勧告の使などを務めた。

高三隆達
たかさぶ りゅうたつ
1527〜1611
祖は漢人の劉氏といわれる堺の薬屋に生まれる。諸芸の達人といわれ、書では堺流を広め、小唄では隆達節の祖となった。隆達節とは、「閑吟集」などに節をつけて唄ったもので、近世小唄の原型である。

武井夕庵
たけい せきあん
生没年不詳
はじめ美濃守護土岐頼芸、のち斎藤道三・義龍・龍興三代に仕えた文官で、文筆に堪能で副状を発する地位にあった。主家滅亡後は織田信長に右筆として重用され、奏者役も兼務したという。天正三年には二位法印に叙された。

武野紹鴎
たけの じょうおう
1502〜1555
堺茶道の祖といわれる茶人。堺の皮革商信久の子で村田珠光門下に茶を学び、千利休の師として知られる。漢作唐物茶入「みおつくし」(紹鴎茄子)や松島茶壺など数々の天下の名物を所持し、侘茶(わびちゃ)の完成に尽力する一方で三条西実隆に学んだという連歌にも堪能であった。一閑居士・大黒庵とも称す。

立入宗継
たてり むねつぐ
1502〜1555
六角氏に属した近江立入城主宗長の子で、禁裏の金米の出納や貴重品の保管を司る御蔵職(みくらしき)を務めた。やがて信長との結びつきが強くなり、石山合戦時には和平調停に奔走して活躍した。

知恩寺岌州
ちおんじ ぎゅうしゅう
 ? 〜1592
陸奥会津の出身で諸国を行脚、京都百万遍知恩寺二十九世岌善に帰依し、その没後三十世知恩寺住持となる。朝廷から紫衣を賜るなど信頼も厚く、特に上杉謙信と朝廷間の仲介役として活躍、謙信の関東出兵時にも同行した。

茶屋四郎次郎
ちゃや しろうじろう
1542〜1596
表向きは京の呉服屋だが、実は中島清延という家康の隠密といわれ、諜報活動に従事した。本能寺の変の際にはいち早く堺にいた家康にこれを報じ、世に言う伊賀越えの際にも私財を散じて土寇から家康を守った。後には朱印船貿易にも従事した。

朝山日乗
ちょうざん にちじょう
 ? 〜1577
出雲国出身の天台僧(日蓮僧とも)。キリスト教を嫌い、1569年信長の面前で修道士ロレンソとの宗論に応じるが、敗れて激昂しロレンソに刃を向けて信長に一喝されたという。後、毛利家との外交にも活躍した。

津田宗及
つだ そうぎゅう
 ? 〜1591
堺の商人で「天王寺屋」の屋号で知られる豪商。初め信長、後に秀吉に茶頭として仕えた。茶の三宗匠の一人で千利休とともに秀吉の信用厚く重用され、北野大茶会を主催したことで知られる。

徹岫宗九
てっしゅう そうきゅう
1480〜1556
京都大徳寺住持。後奈良天皇から普応大満国師の号を賜る。天文二十二年、上洛した長尾景虎は徹岫のもとに参禅し衣鉢を授かり三帰五戒を受け、法号宗心を与えられた。示寂年は弘治三年ともあるが、辞世の偈「殺仏殺祖 遊戯神通 末期一句 猛虎舞空」を残した。

天室光育
てんしつ こういく
1470〜1563
越後林泉寺第六代住持。上杉謙信が幼時林泉寺に預けられた際、その養育に当たる。謙信に深く信頼され、弘治二年に謙信が国政に嫌気がさして一時出奔した際にも、その理由をしたためた書を天室に送り、家臣に説明するよう求めたと伝えられる。

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