施薬院全宗
やくいん ぜんそう
生没年不詳
宗忠の子で京都の医師。初め比叡山の僧だったが、元亀二年の信長による比叡山焼き討ち以後還俗、曲直瀬道三に師事して医術を習得し、豊臣秀吉の侍医となる。比叡山復興に尽力し、朝鮮役の際には秀吉に従い肥前名護屋へ赴いた。

ヤジロウ
やじろう
生没年不詳
初め薩摩の武士でアンジロウ、アンジェロとも(Angero)。日本人初のキリシタンという。天文十七年、罪を犯してマラッカ(マレーシア)に逃れていたが、ポルトガル商人の案内で同地に滞在中のザビエルのもとを訪ねて日本の情報を提供。ゴア(インド)で日本人初の洗礼を受けた。洗礼名パウロ・デ・サンタ・フェ。彼が気に入ったザビエルは日本へ向かうことを決意し、ヤジロウも案内役として同行。ザビエルが島津貴久から布教許可を得た際の通訳を務めた。

安井道頓
やすい どうとん
 ? 〜1615
河内の町人で、巨額の私費を投じて大坂城横に運河を掘り、これが彼の歿後に「道頓堀」と呼ばれて親しまれ、現在も大阪ミナミの繁華街の中心に位置する。道頓は大坂の陣の際に入城し、落城と共に自害した。当時堀は建設中であったが、事業は一族に引き継がれて無事完成した。

山科言継
やましな ときつぐ
1507〜1579
権大納言で、戦国期の良質の資料である50年にもわたる日記「言継卿記」を著した。織田信定・信秀親子に和歌や蹴鞠を伝授したこともあり、剣聖・上泉信綱など各界の名士たちと親交があった。

山科言経
やましな ときつね
1543〜1611
言継の次男で権中納言。1585年勅勘を被り摂津に出奔し、許されて帰洛した後は徳川家康や豊臣秀次に扶持を受けたが、秀次事件に連座して再び出奔した。医学にも通じ、「言経卿記」を著した。

山上宗二
やまのうえの そうじ
1544〜1590
堺の茶人で薩摩屋瓢庵と号す。千利休の愛弟子で、茶堂として信長のち秀吉に仕えた。毒舌家として知られるが、それが災いして天正十一年以降追放され、小田原北条氏に客分として仕え茶を広めた。秀吉の小田原征伐時に千利休を介して一時帰参するが、程なく秀吉によって処刑された。「茶器名物集」「山上宗二記」などの著書がある。

吉田兼見
よしだ かねみ
1535〜1610
京都吉田神社神主の神道家。兼右の子ではじめ兼和と称したが1586年兼見に改名。明智光秀と親しかったこともあり、本能寺の変の後は一時窮地に陥った。良質資料「兼見卿記」を著したことで知られる。

和久宗是
わく そうぜ
1535〜1615
通称又兵衛、三好氏・将軍義昭・織田信長に仕え、のち豊臣秀吉の右筆を務める。秀吉没後は伊達政宗に仕え黒川郡大谷邑に住んだ。大坂の陣の際に伊達家を致仕して入城、夏の陣で東軍に突入し討死した。

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