有馬晴純
ありま はるずみ
1483〜1566
元は賢純と称したが、将軍足利義晴より一字を貰い晴純と改名。九州北部に勢力を伸ばし肥前西半国を領有するに至る。高来屋形と呼ばれ肥前守護に任じられた名君で七十歳まで現役当主で活躍。子の義貞、孫の晴信はキリシタン大名として有名。
有吉立行
ありよし たつゆき
1558〜1584
細川氏の家臣。立言の子。天正元年の山城淀城攻撃で初陣を飾って以後各地で活躍、三千石を領した。慶長五年二月には豊後木付城代となり翌年に検地を実施、同七年には宇佐郡奉行を務めた。天正十二年十二月十四日没、享年二十七歳。
粟屋元秀
あわや もとひで
生没年不詳
安芸毛利氏譜代家臣で通称縫殿允、備前守を称す。毛利元就の家督相続時には一族(本家)の元国の依頼を受け上京、将軍義晴に元就相続を直訴した。また同年猿掛城の元就に宗家相続を要請した宿老衆十五名の中にも名を連ねている。
安国寺恵瓊
あんこくじ えけい
? 〜1600
佐東銀山城を本拠とする安芸の名族武田氏の一族・武田信重の子で、後に毛利家の外交担当となった臨済僧。信長の奇禍を予言したことで知られる。秀吉との備中高松城対峙の際に活躍、後には秀吉麾下の大名となる。東福寺住職も務めたが関ヶ原で敗れ、石田三成・小西行長とともに西軍の首謀者の一人として京都六条河原で斬首された。
安藤直次
あんどう なおつぐ
1544〜1635
通称帯刀(たてわき)。徳川家譜代の重臣。家康の側近の一人で信頼も厚く頼宣の付家老を命ぜられ、頼宣が紀伊に移ると同時に遠江掛川城主から紀伊田辺城主に。
安藤守就
あんどう もりなり
? 〜1582
美濃斎藤氏の重臣・西美濃三人衆の一人で本巣郡北方城(合渡城)主。娘は竹中半兵衛の妻。通称平左衛門、伊賀守または日向守を称す。姓は安東・伊賀、名は範俊・定治とも。龍興の時に織田信長に通じたが、天正八年に武田家内通の罪により織田家を追放された。本能寺の変の際に混乱に乗じて旧城に入るが、稲葉一鉄に攻められ敗死した。
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