藤丸勝俊
ふじまる かつとし
 ? 〜1582
通称新助、加賀江沼郡赤尾砦を本拠とした加賀一向一揆の将。天文二十四年、朝倉宗滴に攻められ砦を棄てて逃げ、後に上杉景勝に仕えた。天正十年、越中魚津城の守備に就き織田方の猛攻を受け落城、他の諸将とともに自刃した。

古市澄胤
ふるいち ちょういん
1451〜1508
興福寺官符衆徒。播磨(守)胤仙の子で丹後公(守)胤栄の弟。倫観房。文明七(1475)年五月に兄胤仙より家督を譲られる。越智氏方に属し、筒井党・畠山政長らと終始戦った。延徳二(1490)年十月には徳政を公布するなど官符衆徒の中心として存在したが、明応六(1497)年十一月に復帰した筒井党に白毫寺の合戦で敗れ伊賀へ没落。永正五(1508)年七月二十六日、赤沢新兵衛尉長経に従い河内高屋城攻撃中に後詰めの畠山尚順軍に敗れ戦死。享年五十六歳。

古田重然
ふるた しげなり
1544〜1615
重定の子で中川清秀と従兄弟にあたる。左介、織部正と伝わるが、正しくは織部助。茶人として名高い。織田信長の臣で初め荒木村重の与力となるが、村重謀反時には有岡城攻めに加わった。本能寺の変後は秀吉に仕え、晩年はお咄衆を務めた。関ヶ原の戦いでは東軍に参じて加増されたが、大坂の陣の際に豊臣方内通を疑われて家康から切腹させられた。享年七十二歳。徳川秀忠の茶の師匠と伝えられる。

不破光治
ふわ みつはる
1526?〜1582
河内守。ある資料では西美濃四人衆の一人という。はじめ美濃守護土岐氏の家臣でのち斎藤氏を経て織田信長に仕える。浅井長政とお市の婚儀をはじめ、主に外交面で活躍した。越前一向一揆平定後に同国龍門寺城主となり、前田利家・佐々成政とともに柴田勝家の目付を務めた。

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