原 虎吉
はら とらよし
生没年不詳
武田信玄の家臣で通称半右衛門、大隅守を称す。本拠は甲斐山梨郡高畠郷と伝えられる。小人頭横目付職という軽輩ではあったが、永禄四(1561)年の第四回川中島合戦の際、巷説ではあるが上杉謙信が単騎信玄の本陣に斬り込んできた際にその馬を槍で突き、信玄の危急を救ったと伝えられる。

原 長頼
はら ながより
 ? 〜1600
山岐安房守頼房の子で通称彦次郎、隠岐守を称す。はじめ織田信長のち豊臣秀吉に仕える。信長の下では荒木村重討伐、柴田勝家に属した賤ヶ岳の戦いでは先鋒を務め奮戦、能登末森城の戦いでは前田利家に属した。関ヶ原では西軍に属し活躍したが、敗戦後脱出して十月十三日に自刃した。

原田直政
はらだ なおまさ
 ? 〜1576
織田信長家臣。はじめ塙(ばん)重友を名乗り、喜三郎のち九郎左衛門を称す。信長に古くから近侍し赤母衣衆を務めた。数々の合戦で活躍、天正三年に従五位下左衛門佐に叙任、信長より原田姓を与えられ原田備中守直政を名乗る。しかし翌年本願寺との戦いで摂津天王寺に布陣、三津寺へ攻め込んだが数千挺の鉄炮の前に進退窮まり討死した。

原田宗時
はらだ むねとき
1565〜1593
伊達家の重臣。山嶺源一郎の子ではじめ虎駒と名乗ったが、伊達家の宿老原田宗政の養嗣子となる。武勇に優れ、数々の合戦で活躍。文禄の役の際には丈余の大刀を背負い出陣するが釜山で病にかかり、対馬に戻ったところで29歳の若さで病死した。

孕石元泰
はらみいし もとやす
 ? 〜1581
今川義元の家臣。光尚の子で通称藤六、主水佑・和泉守を称す。永禄十一年、武田信玄の駿河侵攻の際に武田方に属す。天正九年遠江高天神城を守るが、家康勢に攻め落とされ自刃した。なお、家康の駿河での人質時代に屋敷が隣り合わせだったことは有名で、常日頃「三河の小せがれ」と馬鹿にしていたため、高天神落城の際に家康方に捕らえられるが助命はされなかったという。

春成久正
はるなり ひさまさ
 ? 〜1559
薩摩島津家の家臣。日置氏の一族で兵庫助を称す。天文二年以来、薩州家実久と伊作家忠良との抗争では忠良方に付き、同七〜八年の加世田攻めで軍功をあげ加世田地頭となる。永禄二年、飫肥城をめぐる日向伊東氏との戦いの救援に赴き城将尚久を助けるが、武運拙く戦死した。

塙 直安
ばん なおやす
1556〜1629
織田信長の臣。通称喜三郎または喜八郎、原田直政の弟。兄重友とともに山城槇嶋城を守った。本能寺の変後は佐々成政に従い越中に赴き、のち豊臣秀吉に仕え秀次に属す。秀次失脚後に浪人となるが、関ヶ原の際には田中吉政に属して活躍。戦後紀伊を経て江戸に移り、医者となった。法名道閑。

塙 直之
ばん なおゆき
1567〜1615
通称団右衛門。元は加藤嘉明の家臣で鉄砲大将を務めたが主家を出奔、浪人の後僧に身を変え鉄牛と号す。大坂陣の際には豊臣方に参じ、冬の陣では蜂須賀勢への夜襲を成功させ「夜討ちの大将」の異名を取った。夏の陣の緒戦に浅野長晟の先鋒亀田大隅守・上田宗古らと泉州樫井で激突して戦死。

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