平田光宗
ひらた みつむね
1529〜1605
薩摩島津家の家臣。平田氏庶流備中守宗秀の二男で昌宗の養子となる。通称新七、左馬助のち美濃守を称す。貴久・義久の家老。天正元年早崎営を守備、同六年日向石城攻め、同十一年肥後堅志田城攻め、同十二年肥前島原合戦など各方面で軍功をあげる。肥後八代守将・地頭、薩摩郡山・同西別府・大隅帖佐地頭。
平田宗茂
ひらた むねしげ
生没年不詳
薩摩島津家の家臣。平田氏庶流式部少輔宗秀の子で通称新左衛門、安房守を称す。はじめ薩州島津家実久に属していたが、天文八年に薩摩苦辛城を献じて伊作島津家忠良に降伏臣従し、のち忠良の家老を務めた。薩摩川辺・同加世田地頭。
平塚為広
ひらつか ためひろ
? 〜1600
豊臣秀吉の家臣。通称は孫九郎、因幡守を称し、美濃垂井一万二千石を領す。関ヶ原の際には大谷吉隆(吉継)に属し、前田利長の南下を阻止。決戦では病に冒された吉隆に代わって指揮をとり奮戦したが、乱戦の中で山内一豊の家臣樫井庄兵衛に討たれたという。
平手宗政
ひらて むねまさ
1525〜1574
平手政秀の長男で、名は宗政(長利・政利とも)。駿馬を所持していたことから信長に所望されるがこれを断ったため信長から恨まれたという。父政秀の切腹は諫死とされるが、この件も一因にはなったと思われる。天正二年八月、長島一向一揆掃討戦の際に討死。
平手汎秀
ひらて ひろひで
1553〜1572
織田信長家臣。平手政秀の孫で、通称監物。武田信玄西上時に浜松城の徳川家康の下に援軍として派遣され、三方ヶ原において徳川勢の先鋒の一翼として武田軍と激突、討死した。
平手政秀
ひらて まさひで
1492〜1553
信長の養育役として知られる織田家譜代家老。奇行が多く「うつけ」と呼ばれていた当時の信長の素行を改めさせるため諫死。以来信長は人が変わったように成長したという。
平野長泰
ひらの ながやす
1559〜1628
豊臣秀吉の家臣。船橋右京進重治の子で平野万久入道の養子となる。初名は長勝、通称権平、のち遠江守を称す。尾張津島十五党の出自で秀吉の小姓として仕え、「賤ヶ岳七本槍」の一人として知られる。戦功を重ねて大和十市郡田原本城主となり、慶長三年には豊臣姓を賜る。後に徳川秀忠に仕えた。
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