本多忠勝
ほんだ ただかつ
1548〜1610
忠高の子。徳川四天王の一人で上総大多喜のち伊勢桑名城主。幼名鍋之助、通称は平八郎。従五位下中務大輔。徳川家武闘派筆頭の猛将で、家康の三河時代から頭角を表し、その活躍は枚挙にいとまがない。生涯大小五十余度の戦いをくぐり抜けてもひとつも傷を負わなかったといい、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と謡われた徳川家自慢の名将。
本多忠朝
ほんだ ただとも
1582〜1615
忠勝の二男。従五位下出雲守。関ヶ原合戦で初陣を飾り、父忠勝が翌年伊勢桑名へ移封された後の上総大多喜城五万石の主となる。元和元(1615)年の大阪夏の陣では東軍の先鋒を務めて天王寺南口に布陣、毛利勝永勢と戦い銃弾を浴びながらも奮闘し、全身二十箇所以上に傷を受けて壮絶な戦死を遂げた。享年三十四歳。戦場近くの一心寺(現大阪市天王寺区逢阪)に墓があり、酒封じの願を掛けると効果があるという。
本田親貞
ほんだ ちかさだ
? 〜1596
薩摩島津家の家臣。大隅の国人で守護代を務めた本田氏一族親尚の子で薩摩吉田・同加世田地頭。通称弥六右衛門、下野介のち下野守を称す。はじめ義久の奏者、のち家老となる。天正十一年に遊行上人と、同十三年には琉球との交渉にあたる。緒方城攻めにも従軍した。
本多正純
ほんだ まさずみ
1565〜1637
正信の子で上野介。正信と共に家康・秀忠の側近で、徳川家のブレーン的存在の知将。下野国宇都宮15万5千石の城主時代に秀忠暗殺を企てたとされ突然改易され失脚、出羽へ流された(宇都宮釣天井事件)。
本多正信
ほんだ まさのぶ
1538〜1616
佐渡守。家康側近で参謀として重用された謀将。元は三河の鷹匠上がりといわれ、一度は一向一揆に加担し家康と戦ったこともある。家康に「わが友」と言わせたほど仲が良かったという。
本堂忠親
ほんどう ただちか
? 〜1599
出羽本堂城主。小田原攻めの際秀吉に臣従し、大谷吉継の指揮下で奥州九戸の乱の際に活躍。朝鮮の役の際には前田利長に属して活躍した。
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