入来院重豊
いりきいん しげとよ
? 〜1583
重嗣の子で、薩摩入来院氏第十四代当主。通称又五郎、弾正少弼を称す。天正二年、島津家に対しての謀反の噂が流れたため、当主義久に神文(血判起請文)を認め異心なきを示し、山田・天辰・田崎・寄田を献上、義久は寄田を返付し本領入来院七十五町を安堵した。
色部顕長
いろべ あきなが
? 〜1587
上杉謙信の家臣。越後揚北(あがきた)衆の一人で岩船郡平林城主。勝長の子で修理亮。はじめ弥三郎と称したが父勝長の戦死後家督を嗣ぎ、上杉謙信から顕長の名を賜る。天正四年頃家督を弟長実に譲り隠居した。
色部勝長
いろべ かつなが
? 〜1568
越後揚北(あがきた)衆の一人で岩船郡平林城主。遠江守憲長の子で修理進を称す。上杉謙信の家臣となり川中島の合戦の際には謙信から「血染めの感状」を賜る。永禄十一年、謀反した本庄繁長の籠もる本庄城攻囲中に繁長の夜討ちを受けて戦死。
色部長実
いろべ ながざね
? 〜1592
上杉謙信・景勝の家臣、名は長真とも書く。越後揚北(あがきた)衆の一人で岩船郡平林城主。顕長の弟で修理大夫。はじめ惣七郎と称したが、永禄九年に兄顕長から長実の名を賜る。御館の乱の際には景勝側につき、天正八年には石船神社を再建した。
岩井信能
いわい のぶよし
? 〜1620
上杉謙信・景勝の家臣。備中守昌能の子ではじめ信濃水内郡の土豪だったが、武田信玄に追われ父と共に上杉謙信を頼り、小姓となる。勇武また智才分別ある武将として知られ、景勝の近習として重用された。茶の湯の達人とも伝えられる。
岩城貞隆
いわき さだたか
1583〜1620
佐竹義重の三男で通称忠次郎、佐竹義宣の弟。岩城忠隆の養子となり家督を嗣ぎ、陸奥岩城平城主となる。関ヶ原の際の不参加を咎められ家康から所領を没収されたが、大坂の役では本多正信に属して参陣、元和二年に信濃川中島一万石の大名に返り咲いた。
岩切善信
いわきり よしのぶ
生没年不詳
薩摩島津氏家臣。左京亮信朗(可楽)の子で三河守のち可春を称す。父可楽から兵術を学び、弘治三年には島津忠良に属して蒲生範清攻めに従軍。豊後大友氏・日向伊東氏攻めにも従い、慶長四年の荘内の役の際には凱歌を唱えたと伝えられる。
犬童頼兄
いんどう よりもり
1568〜1655
美作守頼安の子で肥後相良氏の重臣。通称清兵衛、後に相良兵部を称す。十四歳の時に父頼安とともに水俣城に籠城、その後父の隠退と引き替えに長毎の家老となる。関ヶ原の際は長毎を西軍から東軍に寝返らせ相良家を救うが、長毎歿後に専横の振る舞いありと当主頼寛が幕府に訴え、ために津軽へ流された。
犬童頼安
いんどう よりやす
1521〜1606
美作守重安の子で肥後相良氏の重臣。通称軍七、美作守を称す。相良長定与力の犬童一族が皆殺しにされた中、ただ一人幼少のため難を免れた。出家して伝心と称したが、後に帰参を許されて還俗。以後獺野原(うそのばる)の戦い・水俣城籠城戦などでその武勇を顕わし、義陽歿後の幼主長毎を補佐した。晩年再び出家し休矣と称した。
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