兼松正吉
かねまつ まさよし
1542〜1627
徳川氏の臣で通称又四郎。織田太郎左衛門の臣甚兵衛秀清の子ではじめ信長に仕え、本能寺の変後は信雄に属し八百石を知行した。のちに秀吉に仕えて黄母衣衆を務める。関ヶ原の際には米野合戦における津田藤十郎との一騎打ちで有名。のち松平正吉に請われて仕え二千六百石を知行し、正吉没後は尾張義直に仕えた。寛永四年九月五日、名古屋にて没す。法名英公。
樺山久高
かばやま ひさたか
? 〜1634
忠助の子で薩摩島津氏の一族樺山氏第十三代当主。初め大野氏を継ぐがのち復す。通称権左衛門、美濃守を称した百引・出水・伊作の地頭。島津義弘・家久の家老を務めた重臣。各地の戦いに従軍し軍功多く、特に天正十四年の琉球征伐時には平田宗増と大将を務め、王子らを人質として連れ帰ったことで有名。
樺山善久
かばやま よしひさ
1512〜 ?
信久の子。薩摩島津氏の一族樺山氏第九代当主で、名は幸久とも。通称助太郎、安芸守を称す。享禄二年、勝久のもとへ人質として送られるがのちに脱出、貴久の姉を室とした。天文八年の市来攻め以来数多くの軍功をあげる一方、近衛前久からは古今伝授を受け、また飛鳥井承綱に蹴鞠を学ぶなど、教養人としても知られる。
鎌田政近
かまた まさちか
1545〜1605
政勝の子。最終的には薩摩指宿(いぶすき)地頭で通称又七郎、図書助のち出雲守を称す。島津義久の家老を務め、高城合戦(耳川合戦)においては山田有信らとともに大友軍の侵攻を防いだ。激戦で知られる高橋紹運との筑前岩屋城攻めの際にも活躍、慶長七年には上洛し徳川家康との交渉に当たった。
鎌田政年
かまた まさとし
1514〜1583
島津忠良・貴久・義久の家臣。最終的には大隅牛根地頭で通称刑部左衛門、尾張守を称す。名は政房とも。弘治三年の蒲生範清攻めに始まり、天正八年の阿蘇方肥後矢崎綱田城攻めまで、各地を転戦して軍功をあげた。特に永禄十一年の薩摩馬越城攻めでは、忠良から「永久に島津家はその功を忘れない」とまで賞されたという。
鎌田政広
かまた まさひろ
生没年不詳
政年の子で通称は刑部左衛門。島津氏家臣で義久の使衆、日向申次衆を務めた。永禄十二年の島津・相良両氏和平の際には、島津方の人質として相良氏のもとに赴いた。のち豊臣秀吉の九州征伐に際しては、使者として上坂し秀吉との交渉に当たった。
鎌田政心
かまた まさむね
生没年不詳
島津氏家臣で日向財部(たからべ)地頭。政盛の子で通称外記、筑前守を称す。大永七年に貴久が同族島津実久の攻撃を受けた際、清水城から忠良領田布施まで貴久に付き添って敵の追撃から守り切った八人のうちの一人。のち天正十二年の有馬攻め、同十五年には高橋紹運との激戦で名高い筑前岩屋城攻めでも軍功をあげた。
蒲池鑑盛
かまち あきもり
生没年不詳
筑後国の有力国人で宇都宮氏の一族。龍造寺隆信が苦況にあったときに領内一ツ木に匿い、後隆信に協力した。余談だが、歌手の松田聖子はこの末裔に当たる。
上泉信綱
かみいずみ のぶつな
1508〜1577
上杉家家老の箕輪城主長野業正を助けた上州大胡城主。剣術新陰流の祖で知られ、門下から多数の剣豪流派を輩出し、剣聖と呼ばれた。槍術にも堪能で、上州長野家十六槍の一人としても知られる。長野家滅亡後は武田信玄に招かれたが応ぜず、以後は一介の剣士として生きた。竹刀の発明者。
亀井茲矩
かめい これのり
1557〜1612
湯左衛門尉永綱の子で通称新十郎、元尼子氏家臣で之子(ゆきたね)・真矩のち茲矩を名乗る。天正二年に山中鹿介の養女(妹とも)として亀井能登守秀綱の娘を娶って亀井氏を嗣ぎ、鹿介とともに主家再興に尽くした。後に秀吉に仕え、武蔵守のち唯一の「琉球(台州)守」を称した。琉球征伐に向かったが暴風雨に遭い、房総半島まで流されたエピソードを持つ。秀吉没後は家康に接近、朱印状を認可され東南アジア貿易など政治面で活躍した。
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