京極高吉
きょうごく たかよし
1508〜1581
近江守護の名族佐々木六角氏の支流京極氏十八代当主で高秀の子。足利義輝の近習を務め、義輝の奇禍の際には一条院覚慶(後の義昭)の還俗および将軍位就任のために奔走した。しかし義昭に従っていたことから織田信長と対立するに至り、子の小法師(後の高次)を人質に出して蟄居したという。
吉良氏朝
きら うじとも
1542〜1603
堀越公方今川貞基の子で、名ははじめ頼貞、左兵衛佐を称す。吉良頼康の養子となり、武蔵世田谷に移った。妻は北条氏康の娘で、嫁入り時に「幻庵覚書」を持参したことで知られる。秀吉の小田原攻めの際に上総へ逃れ、後徳川家康に仕え再び世田谷に所領を与えられたが程なく返上、弦巻で隠居したという。
木脇祐秀
きわき ひろひで
1577〜1619
島津義弘の家臣で祐昌の二男。休作のち刑部左衛門を称す。兄祐吉の戦死により家督を嗣ぐ。大男で武勇に優れたと伝えられ、朝鮮役では義弘に従って奮戦し、その功により長刀を拝領した。関ヶ原では義弘の敵中退却を支え、最後まで殿軍として奮闘、身を挺して義弘を守った。戦後五十石を加増され蒲生・平松・加治木と所領を替え、元和五年八月十六日、義弘死去に際して殉死した。
木脇祐昌
きわき ひろまさ
? 〜1585
島津氏の家臣ではじめ日向木脇、のち肥後花山地頭。弘治元年の忠良による大隅蒲生攻め北村の戦いにおいて、急を聞いて馳せ戻り奮戦して軍功をあげ、天正元年には義久に従い禰寝(ねじめ)氏を支援し活躍。しかし天正十三年、肥後花山を守備中に阿蘇氏の攻略に遭い、奮戦虚しく鎌田政虎とともに討死した。
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