小早川隆景
こばやかわ たかかげ
1533〜1597
毛利元就の三男で、後に豊臣家五大老の一人。山陰方面を担当した兄の吉川元春とともに毛利家を支え、山陽方面を任され毛利水軍を統率した。朝鮮の役の際には碧蹄館の戦いにおいて明の大軍を撃破。温和な人柄で、主君輝元や家中の信頼を集めた知勇兼備の名将。
小早川秀秋
こばやかわ ひであき
1582〜1602
木下家定の五男で通称金吾中納言。初名は秀俊、北政所(秀吉の妻)の甥。三歳の時豊臣秀吉の養子となるが、秀頼誕生により小早川隆景の養子となる。関ヶ原の際には西軍に加担したが、徳川家康の催促と恫喝によって土壇場で裏切り、東軍大勝のきっかけを作った。後に諸将から白眼視され、慶長七年失意のうちに二十一歳の若さで歿し小早川本宗家は断絶。一説に、狂死したともいう。
小早川秀包
こばやかわ ひでかね
1567〜1601
毛利元就の九男で、初名は元総。兄小早川隆景に子がなかったため養子となる。豊臣秀吉に寵愛され、羽柴・豊臣姓を許され筑後久留米城主となり侍従に任ぜられる。朝鮮の役では碧蹄館の戦いにおいて明の大軍を撃破。関ヶ原では西軍に属したため所領は没収、剃髪して道叱と号し長門赤間関で隠居した。
小堀政一
こぼり まさかず
1579〜1647
正次の子で従五位下遠江守、通称は遠州。宗甫・孤篷庵と号した。近江小室一万二千石の領主で初め豊臣秀長、のち秀吉を経て徳川家康に仕え、主に普請・作事奉行として活躍、仙洞御所・名古屋城天守閣・二条城御幸御殿などを建築した。古田織部に茶を学び、三大茶人の一人として数えられ、また茶道遠州流の祖として知られる。とりわけ茶室の作事・作庭や茶器の製作に優れ、各地に作品が現存する。
小牧道家
こまき みちいえ
生没年不詳
美濃斎藤氏の家臣。道三・義龍に仕え、源太の通称で知られる。道三と義龍の対立時には義龍側に属したが、長良川の合戦で敗死して晒された道三の首を盗み出し、長良川畔に懇ろに葬ったと伝えられる。
小森沢政秀
こもりざわ まさひで
生没年不詳
上杉謙信・景勝の家臣で、刑部少輔を称す。姓は籠守沢とも書く。御館の乱の際には景勝側につき、越後魚沼郡妻有で信濃市川方面からの侵攻軍を阻止、また坂戸城将を務め武田勝頼の援軍を誘導した。
小梁川盛宗
こやながわ もりむね
1523〜1595
伊達氏十一世持宗の支流、小梁川親宗の子。伊達輝宗・政宗の家臣で、中務少輔を称す。人取橋の合戦では高倉城を守り、郡山の役でも大功を挙げるなど数々の合戦で活躍した。
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