三浦義同
みうら よしあつ
 ? 〜1516
扇谷上杉高救(高敬)の子で相模守護三浦時高の養子となり岡崎城に入るが、直後時高に実子が生まれたため対立。一旦出家し道寸と号したが、後に新井城の時高を夜討ちにかけ相模守護に。永正九年、北条早雲の攻撃を受け新井城に籠もり、三年にわたる籠城戦ののち自害した。

神子田正治
みこだ まさはる
 ? 〜1587
豊臣秀吉古参の家臣で通称半右衛門。秀吉の長浜城時代には黄母衣衆の一人として知られる。天正中国征伐時には播磨で五千石を領し三木城攻めに活躍、賤ヶ岳の戦いにも参加した。小牧・長久手役の際に尾張二重堀の守備に失敗し敗走、所領を没収された。その後豊後へ流れるが天正十五年、秀吉の命により自害。

水野勝成
みずの かつなり
1564〜1651
三河刈谷城主和泉守忠重の嫡子で、のちの福山藩祖。通称藤十郎、日向守を称す。初陣以来猛将として名をとどろかせたが、やや性急で奇矯な性格から出奔、以後各地を放浪する。関ヶ原の直前に父忠重の奇禍により三河刈谷三万石を嗣ぎ関ヶ原・大坂の役で活躍、大和郡山に六万石を与えられた。のち福島正則の改易に伴い備後福山十万石の藩主となり、特に産業・経済面に力を入れて城下町福山発展の礎を築いた。

水野忠重
みずの ただしげ
1541〜1600
忠政の九男で、通称藤十郎、和泉守を称す。初め異母兄信元に従って織田信長に仕えるが、永禄四年以降からは徳川家康に仕える。天正八年に信長から三河刈谷城を与えられるが、小牧・長久手役後に徳川氏の下を離れて豊臣秀吉に仕える。文禄四年に刈谷に復帰して秀吉没後は再び家康に従うが、関ヶ原役の直前に三河池鯉鮒で加賀野井重望に刺殺された。

三木良頼
みつぎ よしより
1520〜1572
飛騨守護三木直頼の嫡子で、桜洞城主。通称右兵衛、飛騨守を称す。飛騨国司姉小路氏の一族古川氏の家督を光頼(頼綱)に嗣がせ、姉小路氏を称す。永禄五(1562)年、非参議従三位に叙せられ嗣頼と改名した。

蓑輪重澄
みのわ しげずみ
生没年不詳
薩摩島津氏家臣。伊賀守・舎人助を称す。弘治元年、大隅北村城攻めに赴いた貴久が危地に陥った際、これを救援したことで著名。永禄年間の軍功大と伝えられる。天文年間から天正五年までの島津氏の合戦を記した『蓑輪伊賀入道自記』の著者として知られる。

三原重秋
みはら しげあき
生没年不詳
薩摩島津氏家臣。重平の子で通称次郎四郎、遠江守を称す。天文十五年、義久らの元服に立ち会い、のち忠良・貴久・義久三代の家老を務めた。大隅曾於郡地頭で、弘治二年自領において重富平松の諏訪社一宇を建立したとの記録がある。

三村元親
みむら もとちか
 ? 〜1575
家親の二男で備中松山城主。永禄十年に備前へ侵攻するが明禅寺合戦で宇喜多直家に大敗し撤退。元亀元年以降、毛利氏の庇護を受け宇喜多勢に奪われていた松山城や佐井田城を取り戻すが、毛利氏と宇喜多氏が提携したため毛利氏から離脱。天正三年五月、小早川隆景に松山城を攻略され翌月に自刃した。

三宅長盛
みやけ ながもり
 ? 〜1582
能登守護畠山氏の重臣で備後守を称す。温井景隆の弟で「畠山七人衆」三宅総広の養子となる。兄景隆と行動を共にし、織田信長への降伏の使者を務めた。一時越後へ逃れ、再び能登へ侵入を図るが、迎撃した佐久間盛政に敗れ、堀田新右衛門に討たれた。

宮原景種
みやはら かげたね
 ? 〜1587
薩摩島津氏家臣。日向須木・肥後左敷地頭で筑前守を称す。永禄十年菱刈攻めに従軍、同十二年には新納忠元の大口攻めに従い、神戸尾・稲荷山に伏兵として布陣し活躍した。しかし天正十五年、秀吉の九州攻めに際して肥後隈荘の守将となり討死した。

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