村上元吉
むらかみ もとよし
1553〜1600
武吉の嫡子で通称小輔太郎、掃部頭を称す。天正四年の摂津木津川口海戦では父武吉の名代として能島水軍を率いて参戦、毛利水軍の事実上の総司令官を務めた。関ヶ原の際には蜂須賀家政の城を請け取りに阿波に赴き、続いて加藤嘉明の伊予松前城請け取りに出向いた際に城兵の抵抗に遭い戦死した。

村上義清
むらかみ よしきよ
1503〜1573
周防守。北信濃の土豪で葛尾城主。武田信玄の度々の侵略に対抗し互角に戦い、上田原の合戦では信玄を破る。しかし、支城を次々に落とされ、ついには長尾景虎を頼り越後へ脱出。景虎の加勢を受けるも旧領復帰は果たせず、越後根知城にて病没した。

村上吉充
むらかみ よしみつ
生没年不詳
弥次郎尚吉の子で又三郎のち新蔵人を称す。妻は毛利氏の海将乃美(浦)宗勝の妹。瀬戸内海を支配していた海賊武将因島村上氏第六代当主。小早川隆景に協力して厳島合戦には家老の末長景道を派遣、防長侵攻時には関門海峡を封鎖するなど活躍、豊前門司城攻略時にも小早川水軍の一翼として勇戦した。養嗣子吉亮は弟亮康の三男。

村越直吉
むらこし なおよし
1562〜1614
通称茂助。家康家臣でその木訥な性格を愛され、側近吏僚の中心的存在として活躍した。彼が気に入った秀吉からの誘いもきっぱり断ったという。関ヶ原の際には清洲城へ家康の命により開戦命令を伝えに赴いたことで知られる。

村田経定
むらた つねさだ
生没年不詳
薩摩島津氏家臣。武秀の子で越前守を称す。明応四年に追放された譜代家臣村田氏は、経定の時に再び忠良に仕える。天文八年以降、忠良・貴久・義久の家老を務めたが、野村是綱暗殺共謀の廉で家老職を解かれた。蒲生北村攻めで義弘の先陣として活躍するなど軍功多数。

村田宗殖
むらた むねふゆ
1534〜1596
民部少輔。名は「むねたね」と読む書も。伊達晴宗の子で柴田郡七郷三万石の領主村田近重の娘に配されて村田家を嗣ぎ、一家に列せられた。後に大坂の陣の際に病と称し参陣しなかったため政宗の怒りに触れ、三百石に減封されたという。

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