真田昌輝
さなだ まさてる
1543〜1575
武田信玄・勝頼の臣。幸隆の二男で昌幸のすぐ上の兄。通称徳次郎、兵部丞、兵部少輔。兄信綱とともに信濃上田城を守備した。武田信玄の騎馬大将を務め、信玄の出陣の際には常にそれに従い、「一之先衆七千」の一手を務めたという。長篠合戦の際には佐久間信盛と戦い首級十六を挙げるなど奮闘するが、深手を負い奮闘虚しく兄の信綱とともに討死した。
真田昌幸
さなだ まさゆき
1547〜1611
幸隆の三男で戦国屈指の策謀家。元武田信玄の近従で初め武藤喜兵衛を名乗っていたが、長篠合戦で二人の兄が相次いで戦死したため当主に。関ヶ原の合戦では西軍につき、戦後高野山へ流され九度山善名称院(真田庵)で病没。「表裏なき人」と言われながらも謀略の限りを尽くし、小大名真田家を戦国期の荒波から守った名将。
真田幸隆
さなだ ゆきたか
1513〜1574
真田家の祖で、父は信濃小県(ちいさがた)の豪族・海野棟綱。謀略に非常に長けた智将で、初め海野小太郎を称した。信玄に仕えてからは山本勘助とともに村上義清や長尾景虎らとの幾多の合戦で戦功を挙げて信玄を助けたと伝えられ、陰の軍師ともいわれた。後に一徳斎を称した。
真田幸村
さなだ ゆきむら
1567〜1615
昌幸の子で本名は信繁。妻は大谷吉継の娘竹林院。関ヶ原合戦の際は父昌幸とともに上田城に籠城、徳川秀忠の軍勢を足止めした。後に昌幸とともに紀州九度山へ配流されるが、大坂の陣の際に豊臣秀頼に請われて入城。元和元年の夏の陣では赤備えの軍団を率いて家康の本陣に迫り、島津家の士に「真田日本一…」と言わせたほどめざましい奮戦をするも、ついには衆寡敵せず力尽き安居天神境内にて戦死した。その見事な兵の進退と鬼神のような武勇を敵からも讃えられ、遺品は髪の毛一本に至るまで奪い合いになったという。
佐野房綱
さの ふさつな
? 〜1601
下野唐沢山城主豊綱の二男で昌綱の弟。剣術の達人で無双の強将と恐れられ、天徳寺了伯と号す。子のなかった甥の唐沢山城主宗綱が長尾昭長に討ち取られたとき、北条氏から跡継ぎをと考えた家中と対立し出奔、上洛して秀吉を頼り御咄衆となる。小田原攻めの際に秀吉に従い唐沢山城を落とし、それにより同城三万九千石の主となった。
佐野昌綱
さの まさつな
1530?〜1574
下野唐沢山城主で豊綱の子。永禄二年に家督を嗣いで以来、紆余曲折はあったが古河公方足利義氏に従い、主に北条氏康に与して何度も上杉謙信と戦った。後に謙信から遣わされた猶子虎房丸を受け入れ、色部勝長らが唐沢山城番として入城した。
猿渡信光
さるわたり のぶみつ
1534〜1587
島津氏家臣。信資の子で通称掃部兵衛、越中守を称す。はじめ薩摩加世田、のち同羽月地頭。主に肥前龍造寺氏との戦いに従軍、島原方面で活躍した。天正十三年には山田有信と筑後へ侵攻、堀切城・江浦城を攻略。しかし同十五年、秀吉の九州征伐に遭い、根白坂の合戦において秀吉方の大軍に敗れ戦死した。
佐脇良之
さわき よしゆき
? 〜1572
尾張海東郡荒子(あらしこ)城主・前田利昌の五男で利家の実弟。信長家臣の佐脇藤右衛門の養子となり、信長の初期の直臣として活躍。後に信長の勘気を被り追放され、家康の下で三方ヶ原の合戦に出陣したが討死した。
山本寺景長
さんぽんじ かげなが
? 〜1582
上杉謙信・景勝の家臣で越後西頸城郡不動山城主。定長の弟で名は孝長とも。謙信の直太刀の衆(一門衆)として活躍するが、御館の乱の際には景勝方に付き、景虎方に付いて敗れた兄に代わり家督を嗣いだ。後に越中魚津城の守備に就くが、天正十年織田方柴田・佐々・前田勢らの猛攻を受け落城、他の守将らとともに自刃した。
山本寺定長
さんぽんじ さだなが
生没年不詳
上杉謙信の家臣で越後西頸城郡不動山城主。名は景定とも、また伊予守を称す。謙信の直太刀の衆(一門衆)として活躍するが、御館の乱の際には景虎方に付いて敗れたため、家督は景勝方に付いた弟の景長が嗣いだ。
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