白河義親
しらかわ よしちか
1541〜1626
結城義親とも。晩年不説斎を称す。はじめ蘆名盛氏と結んで佐竹義重に対抗するが敗れて常陸太田で隠居、のち白河に帰るが秀吉の小田原攻めに参陣せず失領。関ヶ原の合戦の後に伊達家に帰属し、一家に準ずる待遇を受けたという。

白浜重政
しらはま しげまさ
 ? 〜1587
渋谷氏一族出身の薩摩島津氏家臣で周防介を称す。義久の奏者役、使者を務めた。天正十四年、豊後臼杵城攻め、王子ヶ城攻めなどで活躍。翌十五年に豊後鶴崎城から退去した際、大友方鶴崎城主吉岡統増の母妙林尼の計略に掛かり討たれたという。

白石宗実
しろいし むねざね
1553〜1599
姓は「しらいし」とも読む。伊達輝宗・政宗の重臣で若狭守、胆沢郡水沢城主。政宗に従って各地を転戦、特に1589年の会津の役においては伊達成実と共に伊達軍の主力として活躍、文禄の役にも従軍し戦功を上げた。生年は1545年との説もある。

新庄直頼
しんじょう なおより
1538〜1612
近江朝妻城主直昌の子で通称新三郎、駿河守を称す。豊臣秀吉の家臣で、馬廻組・指物使番等を務め、文禄四年に摂津高槻城主となる。関ヶ原の際には西軍に属し伊賀上野城を占拠するも戦後失領、蒲生秀行預けとなる。のち赦され常陸麻生・下野石橋で二万七千石を与えられ将軍秀忠に近侍した。

進藤家清
しんどう いえきよ
生没年不詳
上杉謙信の家臣。広泰寺昌派とともに上杉家の外交を担当、特に北条家との外交に活躍。元亀元年には武蔵岩槻城を大田資正に渡すことを条件に、北条氏康の子氏秀と柿崎景家の子晴家を人質交換、信濃・西上野出兵を約す交渉を成立させた。

進藤賢盛
しんどう かたもり
生没年不詳
山城守貞治の子で通称新二郎のち山城守。近江六角氏の譜代家老で後藤但馬守賢豊とともに「六角の両藤」と呼ばれ、永禄十年制定の『六角氏式目』にも連署した実力者だったが、観音寺騒動後に織田信長に臣従し佐久間信盛の与力となる。本能寺の変後最終的には蒲生氏郷に仕えたとみられる。

神保氏張
じんぼう うじはる
 ? 〜1592
氏重の子で安芸守を称す。能登守護畠山氏の被官で越中守護代を務めた守山城主。はじめ上杉謙信に属すが、謙信没後は織田信長に属して佐々成政の与力となり、子の氏則は成政の娘を娶る。肥後転封時には成政と行動を共にし、その歿後は浪人したが後徳川家康の旗本となり下総伊能村に所領を与えられたという。

神保長職
じんぼう ながもと
 ? 〜1571?
慶宗の子で越中富山城主。天文十二年以来富山に築城して椎名長常と争い、越中大乱となる。一向一揆衆と親交があり一時上杉謙信に城を逐われるが、能登畠山氏の仲介で事なきを得てからは畠山義綱・謙信を奉じた。後に家臣団が分裂し長職は隠居、嫡子長住は京都で織田信長の食客となったという。

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