鈴木重朝
すずき しげとも
生没年不詳
佐太夫の子。秀吉の下、雑賀銃という改良銃を装備した鉄砲衆を率い、朝鮮の役で活躍した。関ヶ原では西軍に属し、伏見城攻めの際に鳥居元忠の首を挙げたと伝えられるが、敗戦後失領。後に伊達政宗に寄食し最終的には水戸頼房付けとなったとされるが、重秀その他と混同されている可能性も高く、その実体は不明。

鈴木重秀
すずき しげひで
生没年不詳
佐太夫の子。雑賀孫一(孫市)の名で有名な、紀州の鉄砲集団・雑賀党の頭領。石山合戦時に本願寺に協力して各地を転戦するが、1577年信長の紀州攻めに遭い降伏。秀吉の紀州攻めの際には太田城へ勧降の使として赴いた。また「孫一」は1589年5月2日に歿しているが、これは複数人物の呼称と思われ、重秀の没年時とは断定できない。
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鈴木忠重
すずき ただしげ
1574〜1658
真田昌幸の家臣で上野名胡桃城代重則の子。通称右近。父重則が名胡桃城を北条方に奪われたため自刃、以後昌幸に引き取られて養育された。のちに昌幸の子信之の信任を得て重臣となり、伏見屋敷留守居役などを務めた。信之の病没後に殉死。

鈴木元信
すずき もとのぶ
1555〜1615
和泉守。名は秀信・高信・重信ともいわれる陸奥古川城主。伊達家の重臣で、主に政治経済面で政宗を助けた。政宗が天下人となることを予想し「伊達幕府」の式目などを準備したが、臨終の際に「もはや無用」と焼き捨てさせたと伝えられる。

薄田兼相
すすきだ かねすけ
 ? 〜1615
豊臣秀吉・秀頼の家臣で隼人正(はやとのかみ)を称す。猛将として知られ、大阪冬の陣の際には博労淵の砦を守っていたが、色遊びに興じている隙に攻め落とされ、「橙武者」(飾り以外に使い道がない、の意)と笑われた。夏の陣にて大和方面へ出撃し、水野勝成らの兵と戦って討死した。のちに狒狒退治で有名な岩見重太郎のモデルとして講談で採り上げられた。

須田満親
すだ みつちか
1526〜1598
信濃高井郡須田郷を本拠とした国人で、天文二十二年、武田晴信の侵攻により上杉輝虎(謙信)を頼る。以後謙信麾下の武将として川中島の合戦で活躍。景勝の代に旧領に復帰、海津城代となり真田昌幸の人質信繁(幸村)を預かり景勝との間を取り持った。景勝の会津移封決定直後に海津城で病歿。

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