伊達政隆
だて まさたか
1590〜1615
岩城常隆の子で、はじめ岩城長次郎を称す。慶長十二年に伊達家に仕え、同十五年(十三年とも)には伊達姓を許されて一門に列した。一説に岩城貞隆の子ともいう。

伊達政宗
だて まさむね
1567〜1636
輝宗の子。仙台藩祖で幼時に右目を失明、独眼竜の異名を持つ奥州の名将。父輝宗の奇禍により家督を相続して以来、奥州の国人衆を次々と攻略、広大な勢力を築いたが秀吉の小田原攻めへの遅参を咎められ、所領を削られた。長女の五郎八(いろは)姫を家康の子・忠輝に嫁がせ徳川家との結びつきを強め、また南蛮貿易を企図し家臣の支倉常長をスペインに派遣したことでも知られる。

伊達宗直
だて むねなお
1577〜1629
伊達稙宗の孫で通称右門、相模守。武勇才略に優れ、白石宗実の娘に配されて白石氏を嗣いだ。和賀の乱の際に罪を得て寺池城に移されるが、北上川改修と新田開発に力を入れ、荒地を二万石の地に変貌させた。後大坂の陣の活躍により伊達姓を許された。

田中吉政
たなか よしまさ
1548〜1609
元は農民の出自で、数年で大名にまで出世した「ミニ秀吉」的な異色の武将。関ヶ原の際にはかつての僚友石田三成を自ら捕らえ、その功により三河岡崎十万石から筑後柳川三十二万石の城主に抜擢された。柳川では土木・農政の開発に尽力するが、慶長十四年二月に京都で客死した。

谷 忠澄
たに ただすみ
1533〜1600
長宗我部氏の重臣で通称は忠兵衛、のち土佐幡多郡中村城代。元親を常に側で助け、秀吉の四国征伐の際には渋る元親を説得して豊臣方との降伏調停に奔走、主家を滅亡から救った。出自は土佐神社の神官と伝えられる。また天正十四年の豊後戸次川の戦いでは、戦死した信親の遺骸を受け取りに島津方新納忠元のもとへ赴いた。

谷 衛好
たに もりよし
1529〜1578
幼名小太郎、大膳亮。美濃の土豪福田正之の二男で、伯父谷衛之の養子となる。はじめ斉藤氏のち織田信長の下羽柴秀吉に属して戦功を挙げ、播磨平田で六千石を領した。天正六年九月、秀吉の三木城攻めに従軍して平田大村砦の守将となる。同七年九月九日、兵糧を絶たれ窮した別所勢の急襲を受け奮闘するが壮絶な戦死を遂げた。

種子島恵時
たねがしま さととき
1503〜1567
島津氏家臣。忠時の子で大隅種子島氏第十三代当主。通称左兵衛、加賀守を称す。天文八年の島津氏による市来平城攻めに加わって以来島津貴久に従い、同十七年の北原攻め、翌年の加治木攻めなどに参加。天文十二年には子の時堯とともに我が国初の鉄炮を入手した。

種子島時堯
たねがしま ときたか
1528〜1579
島津氏家臣。恵時の子で大隅種子島氏第十四代当主。通称左兵衛、左近将監・弾正忠を称す。名は直時とも。天文十二年に父とともに自領種子島西村浦に漂着したポルトガル船より鉄砲を入手、製法や操作法を学び取り、初の国産銃「種子島銃」を制作した。弘治元年以降、蒲生攻め・肝付攻めなどで活躍するが、屋久島をめぐって禰寝(ねじめ)氏と抗争した。

種子島久時
たねがしま ひさとき
1568〜1611
島津氏家臣で義久・義弘の家老。時堯の二男で大隅種子島氏第十六代当主。通称三郎次郎、左近大夫を称す。名は克時とも。天正十二年に兄時次の早世により家督を嗣ぐ。鉄炮に長じ、対龍造寺・大友戦や朝鮮の役で活躍。天正十一年には、田布施において義久の前に走り出た猪を捕え賞されたというエピソードを持つ。

田原親賢
たわら ちかかた
 ? 〜1600
豊後大友氏の重臣。奈多大宮司鑑基の子で妹は大友宗麟の妻。民部大輔、尾張守、近江守のち近江入道紹忍を称す。大友家にあって宗麟の妻とともに反キリシタンの立場にあり、天正五年に養子親虎が受洗したため廃嫡。大友義統の国除後は秀吉から三千石を与えられて中川氏の与力となった。関ヶ原の際には主家再興を目論む義統に合力するが佐賀関で太田一吉に敗れ戦死。

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