富塚宗綱
とみづか むねつな
? 〜1613
仲綱の子で伊達家譜代家臣。通称又一郎、近江守。二歳の時に父仲綱が討死、家臣に助けられて三春へ奔る。晴宗に許され復帰、輝宗の代では宿老を務めた。最上氏との和睦の際には伊達家の名代として交渉に当たり、和漢連句の才にも長じたという。
豊臣秀次
とよとみ ひでつぐ
1568〜1595
母は秀吉の姉。最初は秀吉の後継として期待され関白にまで登りつめるが、後継ぎの秀頼が誕生すると身の不安から乱行を繰り返して「殺生関白」と呼ばれた。後に秀吉の命にて高野山へ謹慎させられ、程なく同地で切腹。
豊臣秀長
とよとみ ひでなが
1540〜1591
通称小一郎、のち大和大納言。秀吉の弟で、兄の覇業を蔭で支えた最大の功労者。特に但馬平定戦・四国攻め・九州攻めなどで活躍した。温厚な性格で人当たりもよく皆から慕われたが五十一歳で病死。豊臣政権の事実上の治政実務を司った名補佐役。
豊臣秀吉
とよとみ ひでよし
1536〜1598
関白、太閤。戦国一の出世人。信長の草履取りから侍大将、大名と出世し、その重臣として中国方面司令官を務める。本能寺の変の際には「中国大返し」と言われる早業で備中から軍を返し、山崎にて明智光秀を破る。翌年賤ヶ岳にて柴田勝家を滅ぼし不動の地位を固め、天正十八年には小田原北条氏を滅ぼしついに天下を掌握。しかし晩年に二度の朝鮮侵略の暴挙に出て失敗、その途中の慶長三年八月十八日に病死。
豊臣秀頼
とよとみ ひでより
1593〜1615
秀吉の子で母は浅井長政の娘・淀君、妻の千姫は家康の孫。大坂の陣の際は母淀君らの口出しに逆らえず、冬の陣では家康の計略に掛かって和睦、城の堀を全て埋められた。夏の陣にて野戦部隊は奮闘したが衆寡敵せず全滅、炎上する城で一族郎党と共に自刃。
鳥居勝商
とりい かつあき
1540〜1575
通称強右衛門(すねえもん)。徳川家康麾下の奥平信昌(当時は貞昌)の家臣で、信昌の居城・長篠城が武田勝頼に包囲された際、一命をなげうって援軍要請の使者を務めた。城を上手く抜け出して岡崎までたどり着き使命を果たすが、帰城にあと一歩のところで失敗、篠場野で武田軍に捕らわれて磔刑に処された。
鳥居忠吉
とりい ただよし
? 〜1572
徳川家の譜代家臣。家康が人質として駿府に置かれている間に留守の岡崎城を守り、家康が戻ってきたときのためにと徹底した倹約と今川家の目をかすめてまとまった蓄財を作ったことで知られる、典型的な三河武士の象徴とも言える人物。
鳥居忠政
とりい ただまさ
1566〜1628
元忠の子で幼名新太郎、左京亮。関ヶ原や大坂の陣の際は江戸城留守居役を務める。関ヶ原の戦いで父元忠が戦死し、兄康忠は早世したため家督を嗣いだ。関ヶ原の際に父元忠を討ち取り、その遺品を届けに来た雑賀孫一と長く交誼を結んだという。
鳥居元忠
とりい もとただ
1539〜1600
忠吉の子で家康の幼時よりの譜代家臣。通称彦右衛門。関ヶ原の際には家康からの増援を拒否、留守居の伏見城にて西軍の雑賀孫一らの攻撃を受け、徹底抗戦の後戦死。一説には元忠自ら死を決して東下する家康と別れ、伏見城に残ったとも言われる。
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