宇都宮広綱
うつのみや ひろつな
1543〜1580
尚綱の子で下野宇都宮城主。天文十八年の内訌で父尚綱が敗死後、芳賀高定に奉じられて真岡城に入る。その後那須高資・壬生綱雄を相次いで滅ぼし、宇都宮城を回復した。妻は佐竹義昭の娘。

鵜殿長照
うどの ながてる
生没年不詳
今川義元の家臣。三河の国人で西郡上郷城主。長持の子で氏真の従兄弟にあたり(母が義元の妹)、通称は蔵太郎(藤太郎とも)。義元西上の際に尾張大高城将を務めた。桶狭間で義元敗死の後も今川方に留まるが、永禄五年家康の攻撃により落城し捕らえられ、駿府で人質となっていた家康の妻築山殿と嫡子信康との交換要員にされた。

鵜殿長持
うどの ながもち
 ? 〜1562?
今川義元の家臣。三河の国人で西郡上郷城主。妻は今川義元の妹で、通称は三郎または藤太郎。弘治三年九月死去とも永禄五年三月死去とも伝えられ、詳細は不明。永禄五年説の方では家康勢に城を攻め落とされ、甲賀衆伴資定に討たれたとされる。

梅北国兼
うめきた くにかね
 ? 〜1592
薩摩島津氏家臣で宮内左衛門を称す。弘治三年、蒲生範清攻めに従い、大隅山田のち湯之尾地頭。文禄元年に島津家久に従って朝鮮出陣の際、東郷甚右衛門・田尻但馬・伊集院三河守らと突如肥後佐敷城を奪い相良氏に通じて謀反したが、佐敷城将境左衛門と留守居衆に逆襲され殺害された。

浦上宗景
うらがみ むねかげ
生没年不詳
播磨・備前・美作三国守護赤松氏に属した備前の国人で和気郡天神山城主。村宗の二男で内蔵助を称す。兄政宗と対立し天神山城へ移り信長に加勢、備前・美作を領す勢力となったが、天正五年に次第に台頭してきた家臣の宇喜多直家の謀略により城を落とされ、讃岐へ追放された。

浦上村宗
うらがみ むらむね
生没年不詳
播磨・備前・美作三国守護赤松氏に属した備前の国人。宗助の子で同族則景の養子となる。大永元年には守護赤松義村を播磨室津に殺害、西播から備前・美作にわたる支配権を確立した。享禄三年、細川高国とともに柳本賢治を播磨に倒すが、翌四年三好元長との天王寺の戦いに敗れ戦死した。

浦 宗勝
うら むねかつ
1527〜1592
兵部丞。安芸小早川氏の家臣乃美賢勝の嫡子で乃美宗勝ともいう。小早川水軍の提督。隆景に協力して高山入城を助け、水軍を率いて厳島合戦・門司城攻防戦などで活躍、立花城攻囲戦では退却時に殿軍を務めた。天正四年の木津川海戦時には総司令官となり、同七年の播磨三木城への兵糧搬入などにも活躍した。

上井覚兼
うわい かくけん
1545〜1589
島津貴久・義久の重臣。薫兼の子で伊勢守を称した日向宮崎城主。義久の側近として政治中枢の一端を担う一方、永禄四年の廻(めぐり)城攻めに始まり軍功も多数。非常な教養人で文芸にも造詣が深く、随筆『伊勢守心得書』を著して後進へ教えを遺し、また『上井覚兼日記』を著したことでも知られる。

上井秀秋
うわい ひであき
生没年不詳
島津義弘の家老。薫兼の二男で伊勢守覚兼の弟。通称次郎左衛門、小林・馬関田・綾の地頭を務める。義弘に従って飯野城へ入り、日向伊東氏との木崎原の合戦で活躍。天正十年に義弘飯野城時代の家老となった。子の里兼も家老職を継いだ。

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