山田有栄
やまだ ありなが
1578〜1668
薩摩島津氏の重臣。有信の嫡子で大隅福山のち薩摩出水地頭。通称弥九郎、民部少輔を称す。秀吉の九州攻めの際には人質として秀長のもとに赴く。朝鮮役・唐島海戦・荘内の変・関ヶ原などで数多い軍功の一方、用水溝の開発や特に薩摩武士の育成に力を注ぎ、出水兵児(へこ)の名を広く知らしめた。
山田有信
やまだ ありのぶ
1549〜1609
薩摩島津氏の重臣。島津氏一族山田氏庶流有徳の子で貴久・義久に仕え、義久の家老を務める。通称新助、民部少輔のち越前守を称す。大友宗麟との耳川合戦の際に日向高城の守将として奮戦したのは有名。他にも島津義虎の謀反鎮圧・石城攻め・筑後堀切城攻めなどで軍功あり。のち秀吉から天草四万石を与えられるが返上、島津氏臣従を願い出たという。
山田長政
やまだ ながまさ
? 〜1630
駿河の染工(紺屋)山田九平次の養子九左衛門友昭の子(妻の連れ子という)で通称仁左衛門。慶長年間後半にシャム(現タイ)に渡ってアユタヤ王朝下で活躍、日本人町の頭領となる。戦功を重ねてリゴール(タイ南部のナコンシタマラート)王となったが、国王没後の王位継承争いに巻き込まれ毒殺されたという。しかし長政自体の存在を否定する向きもある。
山名豊国
やまな とよくに
1548〜1626
一族間の争いや家老武田高信の離反などで揺らいでいた山陰の名族山名氏も、豊国がこれを収束して第十七代因幡守護の鳥取城主に。しかし、秀吉の山陰侵攻の前に降伏したため、家臣らに城を追い出された。後に秀吉の御伽衆となり、関ヶ原では東軍に参加。戦後徳川政権下で但馬村岡山名氏の祖となった。
山中長俊
やまなか ながとし
1547〜1607
為俊の子で『中古日本治乱記』の著者。近江甲賀郡の出身で、初め六角氏に仕えていたが、信長の近江侵攻・六角氏の国外逃亡を機に織田家に仕え、柴田勝家に属し家老職を務める。勝家滅亡後は丹羽長秀に仕えるが、のち秀吉に召し出され右筆として仕える。関ヶ原では西軍に属したため所領を没収され京都に隠棲、そのまま歿した。
山中幸盛
やまなか ゆきもり
1545〜1578
通称鹿介。尼子家の勇将で主家復興に尽し奔走したが、上月城にて毛利軍の包囲に遭い、援軍の秀吉が兵を退いたため孤立し無念の降伏。この上は毛利家の当主・輝元と差し違えんと心中深く期したが、吉川元春に見破られ安芸国へ護送中に備中阿井(合)の渡で謀殺された。
山内一豊
やまのうち かずとよ
1546〜1605
通称猪右衛門、初代土佐藩主。信長・秀吉・家康に仕え、さほど武功があったわけではないが、妻との二人三脚でついに徳川政権下で土佐一国の太守の地位にまで昇った。
山本勘助
やまもと かんすけ
1493〜1561
本名は晴幸、号は道鬼。活躍を示す確たる資料はないが「甲陽軍鑑」では武田家の軍師・参謀的存在とされ、また築城術にも優れ小諸城などの縄張り(設計)を行ったという。永禄四年の第四次川中島合戦で「きつつきの戦法」を考案するも謙信に見破られ、責任を感じて敵軍中に突入し戦死したと伝えられる。
山吉豊守
やまよし とよもり
1541〜1577
政応の子で通称は孫次郎。上杉謙信の家臣で越後三条城主。初めは謙信の側近の旗本として馬廻り衆、永禄十年以降は奏者番を務め、対北条家との外交などに活躍した。天正三年の軍役帳では家中最多の377人を負担している。
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