蔭山殿
かげやまどの
1580〜1653
後の養珠院。父は正木邦時、祖父は北条氏堯。徳川家康晩年の側室で、蔭山長門守氏広の養女だったことからこの名で知られる。家康との間に紀伊頼宣・水戸頼房を生んだ。
亀姫
かめひめ
1560〜1625
後の盛徳院。家康の長女で母は築山殿。奥平信昌の妻となり、加納御前とも呼ばれた。本多正信・正純親子を憎み、後に宇都宮釣天井事件を引き起こしたと言われる。
寒松院
かんしょういん
? 〜1613
真田昌幸の室でのち山手(山之手)殿と呼ばれた。出自は宇田頼忠または頼次の娘・菊亭晴季の娘・正親町実彦の娘で菊亭氏養女・正親町氏の娘で武田信玄養女・遠山右馬亮の娘などと諸説あり不明。信幸(のち信之)・信繁(幸村)の母。昌幸の九度山配流の際、落飾して寒松院と号した。慶長十八年六月三日没。
北政所
きたのまんどころ
1549〜1624
豊臣秀吉の糟糠の妻。杉原定利の娘で名はおね、寧々(ねね)とも。子が無かったため次第に側室淀君に主導権を握られる。秀吉死後は家康寄りの立場をとり、非常に信頼されたという。後の高台院。
見性院
けんしょういん
1557〜1619
山内一豊の妻で名は千代。「まつ」とする説もあるが不明。美濃八幡城主遠藤盛数の娘で慶隆の妹。身分が低かった頃の夫に嫁入り時の蓄えをはたいて名馬を購い、これがきっかけで馬揃えの際に織田信長に見いだされた一豊が出世を重ね、後に土佐一国の主にまでなったというエピソードで有名。
豪姫
ごうひめ
1574〜1634
樹正院。前田利家の娘で秀吉の養女となり、後に宇喜多中納言秀家の妻となる。関ヶ原の戦いで夫秀家が八丈島へ流されたのを機に受洗し、前田家へ戻った。
小松姫
こまつひめ
1573〜1620
本多忠勝の娘で真田信之の室。天正十四年、徳川家康の養女として真田信之に嫁ぐ。賢夫人として知られ、関ヶ原合戦の際に敵となった義父昌幸が孫の顔を見たいと上田城に立ち寄るが、これを峻拒した話は有名。元和六年二月二十四日、草津温泉へ療養に行く途中に武蔵鴻巣で没した。
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