橋本一巴
はしもと いっぱ
生没年不詳
青年期の織田信長の鉄砲指南役として知られる、砲術一巴流の祖。1558年7月、信長が浅野村を攻めた際に敵の弓達者を二ツ玉の鉄砲で仕留めたとあるが、これ以外の事績は不明。

林崎重信
はやしざき しげのぶ
1548〜 ?
通称は甚助(じんすけ)。抜刀術・神夢想林崎流(単に林崎流とも)の開祖。相模に生まれた重信は諸国へ武者修行中、出羽林崎明神(山形県北村山郡)に参詣中に抜刀の奥義を悟って一流を打ち立てたと伝えられる。

疋田景兼
ひきた かげかね
1527〜1605
通称文(豊)五郎、号は小伯(虎伯とも)。晩年には栖雲斎(せいうんさい)を名乗る。上泉信綱の甥(異説あり)にあたり、当時畿内随一と評判だった柳生宗厳と三度立ち会い全て勝ったと伝えられる。後に豊臣秀次の剣術師範を経て豊前中津細川家のち肥前唐津寺沢家に仕えたという。

樋口定次
ひぐち さだつぐ
生没年不詳
通称又七郎。奥州相馬の住人・慈音(俗名は相馬四郎義元)を祖とする念流宗家八世。上州馬庭村に住んでいたことから馬庭念流とも呼ぶ。念流七世友松氏宗に師事、1598年正式に道統を受け継いだ。天流の村上権左衛門との高崎城下烏川の決闘に勝つが、それ以来消息が途絶えた。

土子泥之助
ひじこ どろのすけ
生没年不詳
常陸国江戸崎に住む諸岡一羽門下の剣豪で、名は「土呂之助」とも書く。師の没後は江戸崎でそのまま道場を続け、やがて門弟の水谷八弥に後を任せて、自らは遠州横須賀城主・大須賀康高に仕えた。門人に家所伊右衛門がいる。

日置正次
へき まさつぐ
生没年不詳
通称弾正、道号は道以または威徳。晩年には剃髪して瑠璃光坊(るりこうぼう)と名乗る。伊賀国柘植郷の出身で(大和説もあり)、その弓術をもって諸国を歴遊し近江六角氏の内戦にも参加した記録がある。日置流弓術の祖。

宝蔵院胤栄
ほうぞういん いんえい
1521〜1607
僧名覚禅坊の奈良興福寺塔頭(たっちゅう)・宝蔵院院主で、十文字鎌槍を独自に考案したと伝えられる宝蔵院流槍術の開祖。俗称は伊勢伊賀守。刀術もひとかどのもので、友である柳生宗厳とともに上泉信綱に師事した。門下に「笹の才蔵」の異名をとる可児才蔵吉長らがいる。

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