真壁氏幹
まかべ うじもと
1550〜1622
はじめ結城氏、のち佐竹氏に属した常陸国真壁城主で通称小次郎、のち安房守を称す。出家後は暗夜軒闇礫斎または道無と号す。塚原卜伝に剣を学び大力無双といわれた剣豪で、一丈もの長さの鉄鋲を打ち付けた六(八)角棒を振り回し、合戦の際には敵兵の馬もろともなぎ倒したという。
松本尚勝
まつもと なおかつ
1468〜1524
通称備前守。初め守勝、後に政信。長享二年に上京した際、将軍義尚の諱を拝領し尚勝と改めた。鹿島神宮の祝部(ほうりべ)の出で、常陸大擾(だいじょう)家の宿老の一人。飯篠長威斎家直に天真正伝神道流を学び、後に鹿島神流を創始して独立。塚原ト伝の極意として名高い「一ノ太刀」は、実はこの尚勝によって生み出され、彼の養父塚原安幹を経て伝わったという。大永四年、高間ヶ原の戦いで討死した。
丸目長恵
まるめ ながよし
1540〜1629 ☆
蔵人佐。晩年には徹斎(鉄斎)を名乗る。肥後相良氏の家臣で16歳の時に大畑合戦で初陣を飾る。本渡城の天草伊豆守より中条流を学び、剣聖・上泉信綱に試合を挑むが敗れて入門、以後新陰流を学ぶ。信綱が将軍足利義輝に兵法を上覧に入れた際には打ち太刀を務めた。のちタイ捨流を興す。刀術のみならず和歌や笛などにも長じていた風流人でもあり、晩年は農耕に従事したという。
壬生源次郎
みぶ げんじろう
? 〜1603
京八流吉岡道場の門弟で、宮本武蔵との間で戦われた史上に名高い洛北「一乗寺下り松の決闘」の吉岡側名目人。わずか11歳では武蔵にかなうはずもなく、一撃で首を飛ばされたと伝えられる。
宮本武蔵
みやもと むさし
1584〜1645
二刀流の達人で二天一流の祖。佐々木小次郎との舟島の戦いで有名な生涯無敗の剣豪。奇矯かつ傲慢な性格と伝えられ、風呂嫌いで身だしなみに欠けていたことから仕官先が見つからなかったという。しかし晩年には客分ではあったが細川忠利のもとで禄を喰んだ。著書に「五輪書」、また画家としても名高い。
師岡一羽
もろおか いっぱ
1533〜1593
名は常成(景久とも)、通称は平五郎。美濃土岐氏四天王・師岡氏の出自で、常陸江戸崎の剣豪で塚原卜伝に新当流を学び、一巴(一羽)流の祖として知られる。晩年に癩風を病み、これを見限った弟子の根岸兎角が逐電、追った岩間小熊と江戸常磐橋で行われた決闘は有名。墓は茨城県稲敷郡江戸崎町の大念寺にある。
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