斎藤勝秀
さいとう かつひで
1550〜1587
常陸国井手村の生まれの剣豪で名は忠秀ともいい、通称は伝鬼(輝)坊(房)。塚原ト伝あるいは新右衛門に新当流を学んだとされ、天流(天道流)の開祖として知られる。京にてその剣技が天覧の栄に浴し、井手判官を名乗る。後に郷里に戻った際、霞流の桜井霞之助と試合に及びこれを倒したことから同流の門人たちに遺恨を残す。後に霞流の門弟たちから不意の襲撃を受け、大勢に囲まれて矢で射殺された。
佐々木小次郎
ささき こじろう
? 〜1612
剣術・厳流の達人で秘技「燕返し」を持つと伝えられる実体不明の剣豪。舟島(厳流島)決戦で宮本武蔵に敗れる。武蔵の「二天記」では越後の小太刀の名人・富田勢源門下とされているが記述に矛盾があり、他説も多数様々で詳細は不明。
佐野房綱
さの ふさつな
? 〜1601 ☆
下野唐沢山城主豊綱の二男で昌綱の弟。剣術の達人で無双の強将と恐れられ、天徳寺了伯と号す。子のなかった甥の唐沢山城主宗綱が長尾昭長に討ち取られたとき、北条氏から跡継ぎをと考えた家中と対立し出奔、上洛して秀吉を頼り御咄衆となる。小田原攻めの際に秀吉に従い唐沢山城を落とし、それにより同城三万九千石の主となった。
信太朝勝
しのだ あさかつ
生没年不詳
元の名を根岸兎角といい、新当流塚原ト伝の高弟・師岡一羽に剣を学んだが、一羽が晩年に病を得て再起がおぼつかなくなると見るや突如小田原へ逐電、自ら剣術微塵流を興す。しかし江戸常磐橋(浅草口橋)で旧弟子の岩間小熊との決闘に敗れ、改名して西国へ赴いて黒田長政の家臣となり大和守を称した。
庄田教高
しょうだ のりたか
生没年不詳
通称は喜左衛門。大和柳生家の家臣で新陰流を学び、奥義に達したとされる遣い手。やがて自ら新陰支流である庄田心流を創始し、後に越後高田城主・榊原忠次に仕えたと伝えられる。
神後宗治
じんご むねはる
生没年不詳
元は上州箕輪城主長野業政の家臣で、通称伊豆守。上泉信綱に新陰流の剣を学び、後に母方の実家の姓をとって鈴木意伯と称す。信綱と別れた後に神後流の祖となり豊臣秀次の剣術指南役となるが、晩年の消息は不明。
善吉
ぜんきつ
生没年不詳
俗名は赤坂弥九郎(雅楽助)。十七歳の時に天真正自顕流三世嫡伝となるが、父の仇討ちの本懐を遂げた後出家して京都天寧寺に入り善吉和尚を名乗る。ここで島津義久(一説に義弘あるいは忠恒=家久とも)に従って上洛中だった東郷藤兵衛重位と知り合い、秘伝を伝授。後に重位は薩摩示現流の祖となった。
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