高田為長
たかだ ためなが
 ? 〜1685?
通称三之丞。元はタイ捨流を学んだ西国武者とも織田秀信の家臣足達庄蔵ともいう。武者修行中に駿府で柳生兵庫介利厳と立ち会い、その技量に圧倒され即時入門随身したと伝える。立ち会い時の「おいとしぼう」(「おいとほしや」の訛)という掛け声が癖で、これを言い終わらぬうちに相手は皆打たれていたという。兵庫介の高弟の一人で後に甫斎と号し、兵法をもって尾張家国家老成瀬隼人正に仕え犬山城下に住した。

田付景澄
たつけ かげすみ
生没年不詳
通称兵庫助。近江田付村出身の砲術田付流の祖。1613年に徳川家康に仕え、その鉄砲術は名人と謳われた。著書に「求中集」「鉄炮打方」がある。

田宮長勝
たみや ながかつ
 ? 〜1645
対馬守。紀伊藩田宮流居合術の祖。元は池田利隆の家臣で、大坂冬の陣の際には摂津尼ヶ崎城を任された。大坂夏の陣の際の活躍が徳川家康に認められ、十男頼宣付けとなり八百石の知行を与えられた。

塚原卜伝
つかはら ぼくでん
1489〜1571
本名は新右衛門高幹(たかもと)、前名吉川朝孝、後に土佐守。剣術新当流の開祖で、秘技「一の太刀」を武器に生涯一度も負けなかったという。武田信玄・足利義輝・北畠具教など名将との交際も広く、剣聖上泉信綱と並ぶ戦国期剣術界の巨星。武州川越における槍の名人梶原長門との立ち会いが有名。門下から多数の剣豪を輩出した。元亀二年三月十一日、郷里の鹿島において門人松岡兵庫助則方の家で死去した。

東郷重位
とうごう しげかた
1561〜1643 ☆
島津氏家臣で通称藤兵衛、長門守のち肥前守を称す。薩摩坊泊地頭で剣術薩摩示現流(初期は日天真正自顕流)の開祖。義久(一説に義弘あるいは忠恒=家久とも)に従って上洛した際、京で天寧寺の善吉和尚(俗名赤坂弥九郎)と出会って剣の奥義を学び、薩摩へ帰って修練に励み自顕流(後に示現流)を創始した。義久・家久に仕え、薩摩藩および家久の剣術指南役になった剣豪武将。

富田重政
とだ しげまさ
1554〜1625 ☆
前田利家家臣。富田流剣術の達人で「名人越後」の異名を持つ加賀藩の剣術指南役。利家・利長・利常三代に仕え、武将としても優れた人物で、武州八王子城攻めや大坂冬の陣でも活躍。剣豪武将としては破格の13500石に封ぜられた。

富田勢源
とだ せいげん
1523〜 ?
越前の中条流剣豪。眼疾のため家督を弟の景政に譲り、富田流を創始した小太刀の名人。美濃に立ち寄った際、当時の国主斎藤義龍の剣術師範・梅津某との立ち会いが知られている。

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