柳生宗厳
やぎゅう むねよし
1529〜1606
剣術柳生新陰流の開祖。後に石舟斎を名乗る。上泉信綱が柳生を訪れた際に手合わせを申し込み、弟子の疋田文五郎にさえ手もなくひねられたことから信綱に師事。以後、研鑽を重ね秘技「無刀取り」を編み出す。
柳生利厳
やぎゅう としとし
1579〜1650
宗厳の孫で通称兵庫助(介)、名は「としよし」とも。初め伊予守長厳を名乗り、晩年は如雲斎と号した。祖父石舟斎宗厳から柳生新陰流の正統を受け継ぎ、後に尾張徳川家の剣術指南役となる。その技量は宗矩をも凌いだと言われ、歴代の柳生一族中でも屈指の剣豪として知られる。側室は島左近の娘・珠で、珠との間に出来た子の新六は後の連也斎厳包。慶安三年正月十六日、京都妙心寺内柳庵にて没した。法名「春光院殿閑叟如雲居士」、墓は同寺塔頭麟祥院。
柳生宗章
やぎゅう むねあき
1566〜1603
宗厳の四男で通称五郎右衛門、但馬守宗矩の兄。剣槍ともに優れたが、客分として滞在中の伯耆中村家に内紛が起き、家老の横田内膳側につき奮戦したが壮絶な戦死。一説によると数本の刀を差し、それらが全て折れるまで敵を切り倒した後に大軍の中に一人で突入していったという。
柳生宗矩
やぎゅう むねのり
1571〜1646 ☆
徳川家康・秀忠・家光の家臣。宗厳の五男で初名は宗頼、通称は又右衛門、後に但馬守を称す。剣術将軍秀忠・家光の剣術指南役として抜擢され、家光のもとでは惣(大)目付の重職に就き諸大名を監視、ついに大和柳生一万二千五百石の大名にまで昇進した江戸柳生家の祖。
吉岡重堅
よしおか しげかた
? 〜1613
清十郎直綱の弟で通称清次郎。1613年、禁裏での祝宴の能の最中に普段から不仲の役人只見弥五左衛門に態度をたしなめられたことに逆上、彼をはじめ多数の人々を殺傷し、駆けつけた京都所司代板倉勝重家臣の太田忠兵衛兼氏に斬られた。
吉岡直綱
よしおか なおつな
生没年不詳
通称清十郎。吉岡憲法直元を祖とし、京にあって「けんぽうの家」と呼ばれ、代々将軍家の剣術師範を務める剣術京八流の名門吉岡家の四代目当主。宮本武蔵に試合を挑まれ、受けて立つが重傷を負ったとも打ち殺されたとも伝えられる。
吉岡直重
よしおか なおしげ
? 〜1603
清十郎直綱の弟で通称伝七郎。兄を破った宮本武蔵に京八流家元の威信をかけて挑戦状を送りつけるが、逆に蓮華王院三十三間堂で武蔵に打ち殺されたと伝えられる。
吉田重賢
よしだ しげかた
生没年不詳
道号は道宝、通称上野介。近江蒲生郡川守村の土豪。弓術に優れた近江六角氏の家臣で、日置弾正正次門下。1500年に日置流弓術を受け継ぎ、自ら弓術吉田流(日置吉田流)を打ち立てた。
吉田重勝
よしだ しげかつ
生没年不詳
通称六右衛門、道号は雪荷(せっか)。弓術雪荷派吉田流の達人で、その門下には蒲生氏郷、羽柴秀長、豊臣秀次、宇喜多秀家、細川幽斎ら錚々たる顔ぶれが見られる。
吉田重政
よしだ しげまさ
生没年不詳
出雲守。重賢の子で近江六角氏家臣。弓術吉田流(日置吉田流)を引き継ぎ、出雲派吉田流の祖となる。六角義賢に弓術を伝授したという。
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