伊賀崎道順
いがのさき どうじゅん
生没年不詳
通称「楯岡(たておか)ノ道順」。伊賀国楯岡郷の中忍クラスの下請け忍者。六角氏の内訌時に義賢に加勢、忍者群を率いて百々某の籠もる佐和山城を落としたという。また鉄砲の名手と伝えられ、織田信長を二度狙撃(いずれも失敗)したとされる記録が残っている。
石川五右衛門
いしかわ ごえもん
? 〜1594
戦国期の畿内を中心に荒らし回ったとされる盗賊団の頭領。秀吉の命により京都所司代前田玄以の手に一族もろとも捕らえられ、京・三条河原で釜ゆでの刑に処された。もとは百地丹波門下の伊賀忍者との説も。京都の大雲院に墓がある。
出浦盛清
いでうら もりきよ
1546〜1623
対馬守。横谷左近幸重とともに真田昌幸・信之に仕えた忍者集団の頭領の双璧として並び称される。信濃埴科郡坂城町出浦の出身で、最初武田信玄、次いで森長可を経て昌幸に仕えたとされる。吾妻奉行を拝命し、配下の吾妻忍びたちを統率して活躍した。
鵜飼孫六
うかい まごろく
生没年不詳
甲賀忍者。甲賀五十三家鵜飼源八郎の一族か。松平元康(徳川家康)が今川方鵜殿長持の拠る三河上郷城攻めの際、戸田三郎四郎の要請に応じ甲賀忍者二百名を統率して城に忍び込み、城内を混乱させ落城させたという記録がある。
円珍
えんちん
生没年不詳
京を追われて近江に逃れていた足利義澄の依頼で、時の将軍義稙を襲撃したとされる。時宗に僧籍を置き、「夜討ち上手」との異名を持つ。ただ、義稙は数カ所の傷を負ったものの、いずれも浅手で暗殺は未遂に終わった。彼のその後の消息は不明。
INDEX
iモード戦国浪漫