戦国を生きた男たち
《 武将編 ふ: 深沢利重〜不破光治

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒] に関連ページあり。


深沢利重(ふかざわ とししげ) 生没年不詳

上杉謙信・景勝の家臣で刑部少輔を称す。長尾政景没後に越後坂戸城将を務め、御館の乱の際には景勝側につき、救援に出陣した北条氏政勢の攻撃をしのいで坂戸城を守りきった。

福島高晴(ふくしま たかはる) 1573〜1633

正信の二男で正則の弟。名は正頼ともいい、兄正則と共に豊臣秀吉に仕える。伊勢長島一万石を領し、尾張知多郡十万石の代官を兼任。関ヶ原の際には東軍に属し正則に従って東下中に下野小山で三成らの挙兵を知り、急ぎ長島へ戻り山岡景友と八百足らずの兵で籠城して城を守った。戦後大和宇陀郡松山城三万石に加増転封されるが、大坂役の際に敵方内通の疑いにより改易され伊勢山田に蟄居、同地で没した。

福島正則(ふくしま まさのり) 1561〜1624 

正信の子。豊臣秀吉麾下筆頭の猛将で、左衛門大夫を称す。「賤ヶ岳七本槍」の一人で、関ヶ原の際には東軍に属し竹鼻城・岐阜城の戦いに活躍、本戦でも先鋒左翼を務め宇喜多勢と激闘を演じた。戦後これらの功により安芸広島四十九万石の大封を拝領。直情家かつ酒好きで失敗も多かったようだが、純な性格は家臣からも慕われ、その軍勢は統制が取れ非常に強かったという。後に幕府より広島城無断修築の罪を問われて信州高井野村に配流、その地で没した。

福島正之(ふくしま まさゆき) 1579〜1601?

正則の甥。別所重宗の七男で、正則の養子となる。母は正則の姉。通称八助、伯耆守のち刑部少輔(刑部大輔とも)、侍従。室は徳川家康の養女(松平康元四女)満天姫。関ヶ原の際には父に従って出陣、美濃竹鼻城を奪う。戦後正則が安芸広島四十九万石に加封された際、備後支配の要として三原城に入った。慶長六年、所行に狂気の沙汰有りとして父正則の勘気を受け、幽閉されたまま餓死と伝える。没年には慶長十三年説もあり不詳。

福富秀勝(ふくとみ ひでかつ)   ? 〜1582

織田信長家臣で通称平左衛門。名は貞次ともいう。長篠合戦の際には鉄炮隊を指揮して活躍、世に言う「三段撃ち」を成功させた。その後信忠付けとなり、高遠城攻めの際にも活躍。本能寺の変の際、信忠と共に二条御所で討死した。

福原貞俊(ふくはら さだとし) 1512〜1593

広俊の嫡子で毛利元就の重臣。元就の井上党粛清の際には家臣団を代表して連署起請文を提出した。元就から「正直で表裏なき人」と絶対の信頼を受け、元春・隆景・口羽通良とともに毛利家最高首脳の一人となる。後に隆景を補佐して山陽方面の経略に当たった。

福原直高(ふくはら なおたか)   ? 〜1600

名は長堯(ながたか)・長成とも。豊友秀吉の小姓上がりで右馬助を称す。石田三成の妹婿であったことから重用され、豊後府内城十二万石の主に。関ヶ原の際には瀬田・大垣城を守るが、助命を条件とする水野勝成らの和議勧告に応じ開城、剃髪して伊勢朝熊山に移るが、家康は勝成らの助命嘆願を許さず自刃した。

富士信忠(ふじ のぶただ)     ? 〜1583

今川義元・氏真の家臣。通称は宮若、のち兵部少輔を称す。永禄四年に氏真より、それまで葛山頼秀に任ぜられていた富士大宮司分と代官職を与えられ、駿河大宮城代となった。後に穴山梅雪に属したと伝えられる。

富士信通(ふじ のぶみち) 生没年不詳

今川氏真の家臣。信忠の子で、通称は蔵人。父信忠とともに今川氏真に仕えたが、今川氏滅亡後は武田勝頼に属し、天正元年には勝頼から駿河竜泉寺等を与えられ、同五年には駿河府中浅間社神職に任ぜられている。

藤田信吉(ふじた のぶよし)  1559〜1616

能登守。はじめ上杉謙信のち景勝に仕えて佐渡平定戦などに活躍し大森城主となるが、関ヶ原の際に徳川家康との外交に失敗し上杉家を逐電。後に家康に仕えて下野で一万五千石を給されるが、大坂の陣の際の不手際により改易された。

藤丸勝俊(ふじまる かつとし)   ? 〜1582

通称新助、加賀江沼郡赤尾砦を本拠とした加賀一向一揆の将。天文二十四年、朝倉宗滴に攻められ砦を棄てて逃げ、後に上杉景勝に仕えた。天正十年、越中魚津城の守備に就き織田方の猛攻を受け落城、他の諸将とともに自刃した。

古市澄胤(ふるいち ちょういん) 1451〜1508

興福寺官符衆徒。播磨(守)胤仙の子で丹後公(守)胤栄の弟。倫観房。文明七(1475)年五月に兄胤仙より家督を譲られる。越智氏方に属し、筒井党・畠山政長らと終始戦った。延徳二(1490)年十月には徳政を公布するなど官符衆徒の中心として存在したが、明応六(1497)年十一月に復帰した筒井党に白毫寺の合戦で敗れ伊賀へ没落。永正五(1508)年七月二十六日、赤沢新兵衛尉長経に従い河内高屋城攻撃中に後詰めの畠山尚順軍に敗れ戦死。享年五十六歳。

古田重然(ふるた しげなり) 1544〜1615

重定の子で中川清秀と従兄弟にあたる。左介、織部正と伝わるが、正しくは織部助。茶人として名高い。織田信長の臣で初め荒木村重の与力となるが、村重謀反時には有岡城攻めに加わった。本能寺の変後は秀吉に仕え、晩年はお咄衆を務めた。関ヶ原の戦いでは東軍に参じて加増されたが、大坂の陣の際に豊臣方内通を疑われて家康から切腹させられた。享年七十二歳。徳川秀忠の茶の師匠と伝えられる。

不破光治(ふわ みつはる)   1526?〜1582

河内守。ある資料では西美濃四人衆の一人という。はじめ美濃守護土岐氏の家臣でのち斎藤氏を経て織田信長に仕える。浅井長政とお市の婚儀をはじめ、主に外交面で活躍した。越前一向一揆平定後に同国龍門寺城主となり、前田利家・佐々成政とともに柴田勝家の目付を務めた。



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