戦国を生きた男たち
《 武将編 ほ: 穂田元清〜本堂忠親

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒] に関連ページあり。


穂田元清(ほいだ もときよ)  1551〜1597

姓は「穂井田」とも。毛利元就の四男で備中猿掛城主穂田氏を嗣ぎ、伊予守を称す。なかなかの勇将で、若い輝元をよく補佐して主に備中方面の合戦で活躍、特に備前児島の戦いでは宇喜多直家を撃破した。文禄の役にも従軍している。また、二男の秀元が輝元の養子となり毛利本家を嗣いだ。

北条氏邦(ほうじょう うじくに) 1541?〜1597

氏康の三男で武蔵鉢形城主。通称新太郎、官称は安房守、生年は1543年とも。上杉謙信との「越相一和(越相同盟)」締結時にその中心となって活躍した。豊臣秀吉の小田原攻めの際には鉢形城に籠もって抗戦するが、前田利家に降伏開城して加賀へ赴き同地で歿した。

北条氏照(ほうじょう うじてる) 1540?〜1590

氏康の二男ではじめ武蔵滝山、のち八王子城主。通称源三、官称は陸奥守、生年は1541年とも。弟氏邦と「越相一和(越相同盟)」締結時に活躍した。北条氏の下野侵攻時には小山氏を追い出して祇園城を奪った。豊臣秀吉の小田原攻めの際、開城後に兄氏政とともに切腹させられた。

北条氏直(ほうじょう うじなお) 1562〜1591

氏政の長男で小田原北条氏第五代当主。幼名国王丸、通称新九郎、左京大夫。室は徳川家康の二女督姫。天正八年六月に父氏政の隠居により十八歳で家督を嗣ぐ。天正十年、織田信長が倒れると滝川一益を神流川合戦に破り信濃・甲斐へと侵攻するが、同十八年の小田原役では豊臣秀吉に敵せず降伏。高野山へ追放されたが翌年許され下野などで一万石を与えられたが、病を得て同年十一月に大坂で病没。

北条氏規(ほうじょう うじのり) 1545〜1600

氏康の四男で伊豆韮山城主。通称助五郎、官称は美濃守。家康の親友と伝えられ、小田原攻めの際は主君氏直に家康を通じての降伏をすすめ、開城後は高野山へ追放された主君とともに同行、豊臣秀吉に仕えて河内国内で二千石を給された。

北条氏政(ほうじょう うじまさ) 1538〜1590

氏康の嫡子で小田原北条氏第四代当主。左京大夫、相模守。決して暗君ではなかったが、名族意識が強く秀吉からの再三にわたる上洛要請を拒否、天正十八(1590)年秀吉軍に敵対し小田原城に籠城。七月に降伏開城し、弟の氏照と共に切腹した。

北条氏康(ほうじょう うじやす) 1515〜1571

氏綱の子で小田原北条氏三代当主。信玄や謙信に一歩も引けを取らず、関八州の領土を守った。武蔵河越城の守将北条綱成の救援に向かい、十倍もの敵を蹴散らした河越夜戦の奇襲は戦国合戦史に名高い。内政面では税制改革を行い、北条氏の支配基盤を確固たるものにした名将。

北条早雲(ほうじょう そううん) 1432〜1519 

小田原北条氏の祖。備中伊勢氏の出自で(異説あり)はじめ足利義視に仕え、室町幕府政所執事から身を起こし、ついには大森藤頼の相模小田原城を奪い取って大名にまで昇りつめた戦国大名の典型。ちなみに早雲自身は伊勢新九郎盛時(長氏とも)を名乗り、北条姓は子の氏綱から。

北条綱成(ほうじょう つなしげ) 1515〜1587

名は「つななり」とも読む。相模の土豪副島(くしま)氏の出身で、人柄を見込まれ氏綱の婿(妻は氏綱の娘)に。戦場では地黄(じき)八幡と呼ばれる旗を背に、常に「勝った!」と叫んで突撃したという相模玉縄城主で、小田原北条家筆頭の猛将。氏康没後には出家し、上総入道道感と称した。

北条長綱(ほうじょう ながつな) 1493〜1589 

後の幻庵。北条早雲の三男で氏綱の弟。北条家四代の長きにわたって仕えた重臣で、97歳もの長寿に恵まれ「北条幻庵覚書」を著した文化人的武将だが、弓馬の術にも優れていたと伝えられる。主に外交などに活躍した。

保科正直(ほしな まさなお)  1542〜1601

元武田家家臣で信州伊那高遠城代正俊の子。織田方に高遠城を囲まれたとき、一旦城を捨てて帰農。後に家康の麾下に参じて小牧の役の際には殿を務めた。小田原攻めや九戸政実の乱にも従軍。後の会津藩祖の名君・正之の祖父でもある。

細川澄元(ほそかわ すみもと) 1489〜1520

阿波守護細川義春の子だが、管領細川政元の養子となり、同じく養子の澄之・高国と家督相続をめぐって不和となる。永正五(1508)年に足利義稙を奉ずる高国に敗れて近江から阿波へと奔る。永正十六(1519)年に三好之長の加勢を得て再挙し高国を破るが、翌年之長が高国に敗れたため再び阿波に戻り、程なく病死した。

細川政元(ほそかわ まさもと) 1466〜1507

勝元の子。文明五(1473)年五月、勝元が四十四歳で没し跡を嗣ぐ。幼名聡明丸、右亰大夫。足利義材・畠山政長と不和となり、明応二(1493)年四月にクーデターを起こして義材を廃し、義澄を立て政長を河内正覚寺に攻め滅ぼす。以後管領となって実権を握るが三人の養子による後継者問題で家中が分裂。さらに修験道に凝り政務を放棄したため永正四(1507)年六月二十三日、澄之派の香西元長らに京都で殺された。享年四十二歳。

細川忠興(ほそかわ ただおき) 1563〜1645

幽斎藤孝の子で幼名熊千代、のち越中守。妻はガラシャ夫人の名で知られる明智光秀の娘・玉。父藤孝に似て時の権力者に上手く取り入り、関ヶ原では東軍に属して活躍、戦功により豊前小倉四十万石の主となる。元和六年に隠居して剃髪、三斎と号した。

細川晴元(ほそかわ はるもと) 1514〜1563

澄元の子。室町幕府管領で一時近畿に勢力を伸ばしたが、家臣の三好長慶に追われて将軍義輝・前将軍義晴と近江に脱出。その後も復権を画策したが果たせず長慶と和睦して隠居、失意のうちに摂津普門寺で病死した。

細川藤孝(ほそかわ ふじたか) 1534〜1610 

三淵大和守晴員の二男で幼名与一郎、細川元常の養子となり足利義晴・義輝・義昭に仕え、後に幽斎と号す。将軍就任前の義昭(当時は覚慶)が松永久秀によって奈良興福寺一乗院に幽閉されていたときには一計を案じ、無事に救出した。常に時の権力者の側について家を保った超一流の文化人武将で、教養が深く朝廷からも信頼を寄せられた。「百人一首抄」など多数の著書も残っている。

堀 秀政(ほり ひでまさ)   1553〜1590

美濃斎藤氏の臣秀重の子。信長から秀吉に仕え、近江長浜・佐和山城主を経て越前北ノ庄城主となり十八万石を領した。信長・秀吉の信任も厚く政治手腕に優れ、長久手の合戦や九州征伐でも活躍。しかし小田原攻め従軍の際、38歳の若さで陣中にて病没。

堀 秀村(ほり ひでむら)   1557〜1599

もと浅井長政家臣で近江坂田郡鎌刃城主。織田信長の浅井攻めの際に信長に臣従、横山城代・羽柴秀吉の与力となる。しかし1574年、旧家老でともに信長に降った樋口直房が甲賀へ逐電して捕らえられ処刑されたため、所領を没収された。

堀江宗親(ほりえ むねちか)  生没年不詳

上杉謙信の家臣で、駿河守を称す。越後鮫ヶ尾城主。御館の乱の際には景虎側につき、一千の兵を率いて御館に入城、景勝軍と戦った。御館落城後、景虎が鮫ヶ尾城に入った際に突如宗親が離反、ために景虎は小田原への脱出に失敗して自刃に追い込まれたという。

堀尾吉晴(ほりお よしはる)  1543〜1611

帯刀先生(たてわきせんじょう)。名は可晴とも書く。豊臣家三中老の一人。秀吉の小姓より出世して遠江浜松十二万石の城主となる。水野忠重殺害事件に巻き込まれ、三河池鯉鮒宿で加賀井重望に斬りつけられ負傷。後に孫で出雲松江城主・忠晴の後見役を務めた。

堀内氏善(ほりのうち うじよし) 1549〜1615

熊野別当職紀伊新宮城主氏虎の二男で通称は新次郎、安房守を称す。名は氏義・重俊とも。秀吉の紀州征伐時には籠城抗戦するが降伏、のち水軍を指揮して活躍した。関ヶ原では鳥羽城の九鬼嘉隆に招かれ西軍に属して失領、加藤清正に預けられ出家して道也と号し、元和元年に熊本で歿した。

本願寺光佐(ほんがんじ こうさ) 1543〜1592

顕如上人。浄土真宗石山本願寺第十代宗主証如の子で第十一代宗主。戦国期の反信長勢力の中心的存在で、十年間にわたる石山戦争で信長と互角に渡り合ったが、ついには正親町天皇の勅命を受け降伏に近い和睦。後に秀吉の命で寺を大坂から京七条堀川に移した。

北郷忠虎(ほんごう ただとら)  1556〜1594

薩摩島津家の家臣。時久の二男で本郷氏第十一代の日向荘内地頭。弾正忠のち讃岐守を称す。天正元年、肝付氏の大隅住吉攻めを父とともに堅守して撃退。同十一年以降は隈本城守備・竹宮攻略・肥後攻め・筑紫攻めに活躍。秀吉の九州攻めに際しては石田三成のもとへ出向き謝罪した。朝鮮の役にも従軍するが唐島で病歿。

北郷時久(ほんごう ときひさ)  1530〜1596

薩摩島津家の家臣。忠親の子で本郷氏第十代の日向荘内のち薩摩宮之城領主。通称右衛門、名は忠豊とも。永禄五年、日向伊東氏との戦いの軍功により貴久から大隅末吉を拝領。飫肥城島津忠親救援の他、対肝付氏戦で活躍。秀吉の九州攻めに際しては石田三成へ子を質として謝罪、荘内を安堵された。嫡子相久自殺のため、二男忠虎が家督を嗣ぐ。

本庄実仍(ほんじょう さねより) 生没年不詳

上杉謙信の初期からの重臣で、越後古志郡栃尾城主。通称新左衛門、入道後宗緩を称す。謙信が栃尾城に入ったときから側近としてその政権の中枢にあって活躍、直江実綱・大熊朝秀とともに奉行職を務めた。

本庄繁長(ほんじょう しげなが) 1539〜1613

上杉謙信・景勝の重臣で越後本庄城主。通称は弥次郎、越前守を称し、晩年は雨順斎全久と称した。一時謙信に信玄への内通を疑われ反旗を翻したが降伏。武力・人望とも一級の下越の名将で、後に景勝の下で陸奥信夫郡福島城主となった。

本城常光(ほんじょう つねみつ)  ? 〜1562

晴久・義久二代に仕えた山陰尼子家の勇将。石見銀山の警護役として山吹城を預かったが、これを狙った毛利元就に謀られ甘言に乗り降伏、殺された。

本庄秀綱(ほんじょう ひでつな) 生没年不詳

上杉謙信の家臣。美作守慶秀の子で通称清七郎、本庄実仍の後を嗣いで越後古志郡栃尾城主となる。御館の乱の際には景虎側についたため、景勝勢に栃尾城を攻撃され落城、城を捨てて会津へ逃れたと伝えられるがその後の消息は不明。

本田公親(ほんだ きみちか)  生没年不詳

薩摩島津家の家臣。親兼の子で大隅の国人で守護代を務めた本田氏第十一代の大隅曾於郡地頭。通称与左衛門、大炊大夫を称す。文禄四年、島津義久が隠居して大隅富隈城に移ったのちに義久の家老を務めたという。朝鮮役(慶長の役)に出陣。

本多重次(ほんだ しげつぐ)  1529〜1596

徳川家康の家臣で通称作左衛門。岡崎三奉行の一人でその性格から「鬼作左」と呼ばれ、秀吉の母大政所が岡崎に下向の際、その居館に柴を積み上げて遇し秀吉から不興を買った。彼による短文手紙の名文句「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は有名。

本多忠勝(ほんだ ただかつ)  1548〜1610 

忠高の子。徳川四天王の一人で上総大多喜のち伊勢桑名城主。幼名鍋之助、通称は平八郎。従五位下中務大輔。徳川家武闘派筆頭の猛将で、家康の三河時代から頭角を表し、その活躍は枚挙にいとまがない。生涯大小五十余度の戦いをくぐり抜けてもひとつも傷を負わなかったといい、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と謡われた徳川家自慢の名将。

本多忠朝(ほんだ ただとも)  1582〜1615

忠勝の二男。従五位下出雲守。関ヶ原合戦で初陣を飾り、父忠勝が翌年伊勢桑名へ移封された後の上総大多喜城五万石の主となる。元和元(1615)年の大阪夏の陣では東軍の先鋒を務めて天王寺南口に布陣、毛利勝永勢と戦い銃弾を浴びながらも奮闘し、全身二十箇所以上に傷を受けて壮絶な戦死を遂げた。享年三十四歳。戦場近くの一心寺(現大阪市天王寺区逢阪)に墓があり、酒封じの願を掛けると効果があるという。

本田親貞(ほんだ ちかさだ)   ? 〜1596

薩摩島津家の家臣。大隅の国人で守護代を務めた本田氏一族親尚の子で薩摩吉田・同加世田地頭。通称弥六右衛門、下野介のち下野守を称す。はじめ義久の奏者、のち家老となる。天正十一年に遊行上人と、同十三年には琉球との交渉にあたる。緒方城攻めにも従軍した。

本多正純(ほんだ まさずみ)  1565〜1637

正信の子で上野介。正信と共に家康・秀忠の側近で、徳川家のブレーン的存在の知将。下野国宇都宮15万5千石の城主時代に秀忠暗殺を企てたとされ突然改易され失脚、出羽へ流された(宇都宮釣天井事件)。

本多正信(ほんだ まさのぶ)  1538〜1616

佐渡守。家康側近で参謀として重用された謀将。元は三河の鷹匠上がりといわれ、一度は一向一揆に加担し家康と戦ったこともある。家康に「わが友」と言わせたほど仲が良かったという。

本堂忠親(ほんどう ただちか)   ? 〜1599

出羽本堂城主。小田原攻めの際秀吉に臣従し、大谷吉継の指揮下で奥州九戸の乱の際に活躍。朝鮮の役の際には前田利長に属して活躍した。



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