戦国を生きた男たち
《 武将編 い: 井伊直親〜犬童頼安

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒] に関連ページあり。


井伊直親(いい なおちか)    ? 〜1562

今川義元・氏真の家臣で遠江井伊谷城主。後の徳川四天王・直政の父。永禄三年の桶狭間の戦いで父直盛が戦死したため、井伊惣領家を継いだ。しかし同五年に氏真から謀叛の嫌疑をかけられ、朝比奈氏の手によって殺害された。

井伊直政(いい なおまさ)   1561〜1602

直親の子。幼名万千代、天正三年に徳川家康に近侍として仕えて以来数々の戦功を挙げ、徳川四天王の一人として称された。武勇に秀で「井伊の赤備え」と聞くと敵はみな戦慄したという。関ヶ原では西軍・島津義弘の退却時にその殿(しんがり)を務めた島津豊久を討ち取ったが鉄砲で撃たれ負傷。戦後近江佐和山城十八万石を領すが、慶長七年二月に合戦の傷が原因で死去した。享年四十二歳。

井伊直盛(いい なおもり)   1506〜1560

遠江の国人で、井伊谷城主井伊氏の惣領。通称次郎、信濃守を称す。永正十一年、大河内貞綱が斯波義達と反今川の挙に出たときこれに呼応して三岳城に拠るが、朝比奈泰以に攻められて落城。この後今川氏に属すが、永禄三年の桶狭間の戦いで討死した。

飯尾連竜(いいお つらたつ)    ? 〜1565

今川義元・氏真の家臣で遠江曳馬(引馬)城主。豊前守乗連の子で通称善四郎、豊前守を称す。永禄七年に徳川家康に内通したため、居城を氏真の兵に攻められてた。一旦講和するが、翌年十二月に氏真に駿河へ呼び出され、そこで暗殺された。

飯河宗祐(いいかわ そうすけ)   ? 〜1606

細川忠興の家臣。山城守信堅の子ではじめ篠山五右衛門を名乗る。三千石を知行し、関ヶ原の際には幽斎とともに田辺城に籠城。子の与四郎(長岡宗信)は忠興に従い岐阜城攻めに活躍し豊前で六千石を領したが、慶長十一年七月二十七日、父子ともに誅殺された。

飯田興秀(いいだ おきひで)  生没年不詳

大内義興・義隆の奉行で小座敷衆の一人。広秀の子で弥五郎・大炊助・石見守を称す。天文三年頃から義隆の九州出陣に従い、筑前御笠郡代を務める。陶晴賢挙兵の際にはこれに従い、後に義長に仕えた。弓馬の故実に通じ、肥前松浦氏の一族籠手田定経との交流があった。

飯田義武(いいだ よしたけ)    ? 〜1592

安芸毛利氏譜代の家臣。児玉就方とともに毛利元就直属の水軍河ノ内衆の提督を務める。厳島の合戦の際には毛利軍本隊を厳島包ヶ浦に輸送、引き続いての防長侵攻時には浦宗勝とともに一揆鎮圧に功を挙げ周辺海域を封鎖した。また伯耆弓浜合戦や豊前沖・筑前立花沖海戦でも活躍した。

飯沼長実(いいぬま ながざね)   ? 〜1600

十郎左衛門。長継の子で通称は勘平。父の死後一時前田利家に仕えるが、金沢で人を殺めて出奔、のち秀吉・織田秀信に仕え美濃池尻城将を務めた。関ヶ原の際には秀信の下で奮戦するが、岐阜城攻防戦において戦死。一説に福島・加藤(嘉朗)勢との戦闘中に火薬庫が爆発して火傷を負い、これがもとで防戦不能となり戦死したともいう。

飯沼長資(いいぬま ながすけ) 1580〜1600 

織田秀信の家臣で「岐阜四天王」の一人。十郎左衛門長実の子で勘平を称すが、父長実も勘平を称したため小勘平と呼ばれた。関ヶ原の際には織田秀信の先鋒として前哨戦の米野の戦いで活躍、一柳家中の勇士大塚権太夫と一騎討ちを演じこれを討ち取るが、ついには力尽き、池田輝政の弟長吉に討ち取られたとも同家中の森寺長勝に討たれたともいう。

飯沼長継(いいぬま ながつぐ)   ? 〜1583

はじめ美濃斎藤氏の家臣で安八(あんぱち)郡池尻城主。長就の子で通称は勘平。斎藤氏滅亡後は織田信長に仕え、元亀元年の姉川の戦いなどで活躍した。信長没後は秀吉に仕えたが、天正十一年、対立する織田信孝に内通した疑いを持たれ、氏家内膳の手により大垣城で殺された。

五百蔵左馬進(いおろい さまのしん)  ? 〜1615

土佐長宗我部氏の家臣。桑名太郎左衛門の二男で香美郡五百蔵城主五百蔵氏の養子となる。通称は藤次郎、実名不詳。関ヶ原の際には敗軍の中、盛親を守って大坂まで退却した。主家滅亡後は紀伊田辺で隠棲するが大坂の役の際に入城、夏の陣で盛親に従い河内八尾での激戦の末、盛親の馬前で討死したという。

猪飼昇貞(いかい のぶさだ)  生没年不詳

通称甚介、姓は「猪飼野」とも。堅田(かたた)衆と呼ばれる近江堅田の土豪で、はじめ六角義賢の家臣。1570年の志賀の陣終結を機に織田信長に属し、明智光秀の傘下に組み入れられたがその後の消息は不明。

池田貞秀(いけだ さだひで)  1558〜1619

島津義弘の家臣。土佐守の子で通称六左衛門、飯野衆。優れた武人として知られ、伊東氏との合戦をはじめ堅志田合戦・豊後入りで活躍、主家が豊臣氏の傘下となってからは文禄役・小田原合戦・荘内の乱で優れた働きをした。元和五年、義弘の死に際して殉死した。

池田恒興(いけだ つねおき)  1536〜1584

恒利の子で名は信輝とも。織田信長の乳兄弟にあたり、信長の旗揚げ以来の宿老。通称勝三郎、紀伊守のち勝入斎と号す。天正八年の荒木村重謀反の際には摂津花隈城を攻略、戦後村重の旧領を与えられた。信長没後は秀吉に従い、長久手役の際には長駆して徳川家康の本国三河を衝く奇策「中入れ」を進言、羽柴秀次軍に属して出陣。しかし徳川家康に作戦を見破られて失敗、戦死した。

池田輝政(いけだ てるまさ)  1564〜1613

恒興の次男で妻は家康の娘。元は信長の近習で関ヶ原では東軍に属し緒戦の岐阜城攻めに活躍。決戦では東軍先鋒を務めて奮戦、戦後その功により播磨一国を拝領し姫路宰相と呼ばれた。

池田元助(いけだ もとすけ)  1559〜1584

恒興の長男で輝政の兄。名は之助とも。通称勝(庄)九郎、紀伊守。天正八年の荒木村重謀反の際には父恒興とともに摂津花隈城攻略に従軍して戦功を挙げた。信長没後は秀吉に従い、岐阜城主となる。長久手役の際には父とともに羽柴秀次軍に属して出陣するが、長久手で徳川家康勢と激戦を演じた末に戦死した。

石川昭光(いしかわ あきみつ) 1550〜1622

陸奥伊具郡角田城主で大和守を称す。伊達晴宗の子で、磐城仙道七郡の領主石川晴光の養子となる。1590年に秀吉に領土を没収されるが、のち政宗の家臣となる。大坂の陣の際は政宗に従い、道明寺口の戦いで活躍した。

石川家成(いしかわ いえなり) 1534〜1609

日向守、徳川家康の家臣で石川数正の叔父。桶狭間の戦いの際には丸根城攻撃の先鋒を務め、三河一向一揆との戦いで活躍するなど、西三河を受け持った。家康関東入封時に伊豆梅縄五千石にて隠居、関ヶ原の合戦時は江戸城留守居役を務めた。

石川数正(いしかわ かずまさ)   ? 〜1592

伯耆守。徳川家筆頭家老で軍政両面、特に外交に活躍したが、秀吉に対する方針で家中と対立、さらに秀吉に内通したとのうわさが広まり白眼視されついには大坂へ出奔、秀吉に仕えて後に信濃松本8万石を領した。

石川貞清(いしかわ さだきよ)   ? 〜1625

豊臣秀吉の家臣で通称兵蔵、備前守を称す。石田三成の女婿で、尾張犬山城主と直轄領の信濃木曾代官を務めた。関ヶ原の際には初め丹後田辺城攻囲、次いで犬山城に籠もるが程なく脱出、決戦では奮戦したものの改易された。後に剃髪して宗林と号し、京都で金貸しを営んだという。

石川貞通(いしかわ さだみち)  生没年不詳

豊臣秀吉の家臣で通称小七郎、備後守を称す。名は家清とも。山城検地奉行を務め、丹波天田郡で二千二百石を領した。朝鮮の役にも従軍、関ヶ原の際には西軍に属して丹後田辺城攻めに参加、戦後改易され南部利直預けとなった。

石川高信(いしかわ たかのぶ)   ? 〜1581

奥州南部一族(政康の次男)で、南部高信ともいう。甥の晴政に仕えその勢力拡大に軍政両面で貢献した奥州の名将。晴政没後は高信の長男信直が南部家を継いだ。

石黒成綱(いしぐろ なりつな)   ? 〜1581

通称左近、越中の地侍で西礪波郡木舟城主。上杉謙信の越中侵攻時に上杉家に臣従するが、謙信没後に親上杉派の勝興寺一向一揆と敵対して織田信長に属す。しかし天正九年上杉方に城を奪われたため信長に呼び出され、途中近江長浜で丹羽長秀に家老諸共討たれた。

石田将監(いしだ しょうげん) 1589〜1636

名は興純、伊達政宗の家臣。伊達氏の支流で政宗が伏見にいたとき出仕、のち近習となり大坂の役の際に活躍した。政宗が歿した日の夜に同志と江戸を発って帰国、自邸で殉死した。

石田正澄(いしだ まさずみ)    ? 〜1600

三成の兄で豊臣秀吉の家臣。通称(小字)は弥三、のち木工頭。和泉堺の町奉行職などを務め、近江・河内で二万五千石を領す。関ヶ原の際には近江愛知川に関を設け東征に向かう諸将を阻止、大坂に集結させた。父正継と佐和山城を守るが東軍に攻め落とされ、城に放火して自刃した。

石田正継(いしだ まさつぐ)    ? 〜1600

三成の父で豊臣秀吉の家臣、隠岐守。通称は藤左右衛門・佐(左)吾左衛門・太郎右衛門など諸説あり、近江で三万石を領す。治政に優れ三成不在時の庶政を執り、また教養豊かな才人としても知られる。関ヶ原の際には一族をあげて佐和山城を守るが東軍に攻め落とされ、城に放火して自刃した。

石田三成(いしだ みつなり)  1560〜1600

正継の子。通称佐吉、天正十三年従五位下治部少輔に叙任。豊臣家五奉行の一人。近江国石田村出身で豊臣秀吉側近の吏僚から台頭、秀次失脚後は近江佐和山城主となり十九万四千石を領した。秀吉没後の慶長四年閏三月、前田利家が没すと朝鮮役で恨みを抱いた福島正則らに襲われ、仲裁に入った家康の裁断で佐和山城に隠居した。関ヶ原では西軍の実質的指揮官となり徳川家康と戦うが、連合軍の足並みが揃わず小早川秀秋らの裏切りにも遭って大敗。脱出行中に田中吉政の手に捕らえられ、十月一日に小西行長・安国寺恵瓊らと京都六条河原にて斬首された。法名「江東院正岫因公大禅定門」、墓所は京都大徳寺三玄院。


伊地知重興(いじち しげおき) 1528〜1580

重武の嫡子で薩摩島津氏譜代の家臣。通称又九郎、周防守を称す。永禄年間に禰寝重長らとともに肝付氏に内通、貴久に叛旗を翻すが元亀三年に島津歳久に居城大隅小浜城を落とされ、天正二年に下大隅五ヶ所の所領を差し出して義久に降伏。以後は島津氏に忠実に服し、大友氏との戦いなどに従軍した。

伊地知重秀(いじち しげひで)   ? 〜1594

伊地知氏庶流で島津義久の家臣。通称勘解由左衛門、伯耆守を称す。義久の奏者を務め、天正二年には天草へ、また翌年には肝付氏へと、それぞれ上井覚兼とともに使者を務めた。後に大友氏との耳川の戦いや、龍造寺氏との沖田畷の戦いにも従軍した。

五十公野信宗(いじみの のぶむね) ? 〜1587

上杉謙信の家臣で、はじめ能登湯山城主長沢筑前守に仕え長沢勘五郎と称す。永禄十二年謙信に臣従し三条道如斎と称し、五十公野右衛門尉の跡を嗣いで五十公野城主となる。御館の乱の際には景勝につき活躍するが、新発田重家の謀反時に重家に加担したため景勝に攻められ自害した。

伊集院忠倉(いじゅういん ただあお) 生没年不詳

忠朗の子で島津貴久の重臣で老中を務める。右衛門大夫、のち大和守を称す。天文十八年には父忠朗とともに樺山幸久と菱刈・北原両氏の降和に当たるが、程なく加治木城主肝付兼演が入来院氏らと謀って挙兵したため、父とともにこれを鎮圧して戦後処理を務めた。

伊集院忠朗(いじゅういん ただあき) 生没年不詳

忠公の子で島津忠良・貴久の老中筆頭を務めた重臣。通称源四郎、のち大和守を称す。天文十七年に本田薫親が大隅正八幡宮を攻めた際に樺山幸久とともに活躍、軍功により大隅姫木地頭となる。以後日向伊東氏攻めや肝付氏・蒲生氏攻めにも従軍し、軍政両面にわたって活躍した。

伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)  ? 〜1599

忠倉の子で島津義久の老中を務めた重臣。天正二年頃までは忠金を名乗り、右衛門大夫を称す。のち出家して入道幸侃(こうかん)と号す。秀吉の薩摩攻めの際に羽柴秀長のもとに人質として赴く。石田三成に通じ秀吉から荘内八万石の所領を直接与えられたため本家から邪視され、伏見の島津邸にて殺された。一説に当主忠恒(家久)自ら手討ちにしたという。

伊集院忠真(いじゅういん ただざね)  ? 〜1599

忠棟の子で通称源次郎、妻は島津義弘の娘。慶長四年に父忠棟が殺された際、日向都城で島津家久(忠恒)に背き荘内の乱を起こす。翌年三月に徳川家康の仲介で降伏、薩摩頴娃で一万石のち大隅帖佐で二万石を領した。しかし、その後も反抗的な態度を取ったため、慶長七年に家久上洛の際に従うが、途中に日向野尻で殺害された。

伊集院久治(いじゅういん ひさはる) 1534〜1607

久道の子で島津義久・義弘・家久三代の老中を務めた重臣。三郎兵衛尉・右衛門尉、下野守。天正八年の肥後矢崎城・綱田城攻めを皮切りに、同十二年には肥前神代へ出陣、十四年には大友方豊後緒方城攻めと各地で武功を顕わした。しかし慶長十一年に天草城の処遇をめぐって義久と意見が対立、老中職を辞した。

泉沢久秀(いずみさわ ひさひで)  ? 〜1615

上杉謙信・景勝の家臣、河内守。御館の乱の際には景勝側につき、のちに奉行職となり主に政策面で活躍、「文禄三年定納員数目録」を作成した。最終的には会津西西置賜郡荒砥城主となり一万一千石を領したという。

泉田重光(いずみだ しげみつ) 1529〜1596

安芸守。晴宗以来の伊達家の重臣で、陸奥岩沼城主。1588年に大崎義隆との戦いに伊達政景と共に伊達勢の総帥として出陣するが大敗、自軍の撤退と引き替えに人質となり最上家に一時幽閉される。後に朝鮮の役などでも活躍した。

伊勢貞実(いせ さだざね)   ? 〜1593

有川貞則の二男で名は貞世・貞序とも。初め有川姓、のち伊勢氏を称す。島津義弘の飯野城在城時の家老と伝えられ、元亀三年の日向伊東義祐との木崎原合戦の際には飯野城を守り切るなど、数々の軍功を顕わした。文禄二年、朝鮮に出陣した際病歿した。

伊勢貞成(いせ さだなり)  1569〜1607

貞実の子。島津氏の重臣で通称弥八、平左衛門。名は貞須・貞顕・貞村・貞之とも。父貞実の跡を嗣ぎ島津義弘の家老となり、朝鮮役・関ヶ原合戦などで活躍。特に関ヶ原の際には南宮山の長曾我部盛親の去就を確認すべく単騎馳せ向かい、義弘より剛勇を賞せられた。慶長十二年、家久(忠恒)より肥前唐津・寺沢家との婚約破談の使者を命ぜられて唐津へ赴いた際、使命を果たすが寺沢家中の反感を買い天草志岐城で殺害された。

磯野員昌(いその かずまさ)  生没年不詳

北近江浅井家筆頭の猛将。姉川合戦では先陣を務め再三信長軍を脅かしたが、最後には降伏。信長を狙撃した杉谷善住坊を捕らえたことでも知られる。後に信長の勘気を被り出奔、晩年は近江国で帰農したとも言われるが以後の消息は不明。

板垣信方(いたがき のぶかた)   ? 〜1548

武田家親族の譜代重臣で駿河守を称し、名は「信形」とも書く。飯富虎昌と協力して信虎を追放し晴信を国主に据えた。武田家の軍政両面の支柱であったが、天文十七年信濃上田原の合戦において村上義清軍と激突、奮戦したが壮絶な戦死。

板倉勝重(いたくら かつしげ) 1545〜1624

伊賀守。元は三河永安寺の僧で還俗して家康に仕える。政治面で頭角を現し家康の信頼を受けて各奉行職を歴任、後には京都所司代の重職を務めた。

板部岡江雪(いたべおか こうせつ) 1536〜1609

実名は融成(とおなり)。小田原北条家の重臣で右筆も務め、主に外交役として信玄・秀吉・家康らと交渉。主家滅亡後には岡野姓(岡とも)に改姓、秀吉や家康に仕えた。山上宗二から茶の湯秘伝書を譲り受けるなど茶人としても高名。

伊丹康直(いたみ やすなお)  1523〜1596

今川義元の家臣で、名は雅勝・康明・秀虎とも。摂津伊丹城主雅興の子で大隅守を称す。享禄二年伊丹落城の際に家臣に守られ伊勢から上野を経て駿河興津へ至る。義元の同朋衆を務め、氏真の時に海賊奉行を拝命。氏真没落後は武田信玄に仕えて船大将となり、最終的には徳川家康の下で船奉行を務めた。

板屋光胤(いたや みつたね)   生没年不詳

佐渡守、名は英胤とも。上杉謙信の家臣。天正元年に松本鶴松の後見人となり、越後三島郡小木城代となる。御館の乱の際には景勝側につき活躍、軍功により吉水・富岡の地を与えられ出雲崎の代官となった。

市川信綱(いちかわ のぶつな)  生没年不詳

信濃下高井郡木島平を本拠とした土豪で、通称新六郎、治部少輔を称す。村上義清が武田信玄から信濃を追われると信玄に臣従、旧領の安堵と加増を受けた。武田勝頼滅亡後は上杉景勝に仕えた。

市来家親(いちき いえちか)   生没年不詳

家朗の子で通称玄蕃左衛門。薩摩島津氏の家臣。島津義久の下で大隅松山地頭職を務めた。天正十二年の肥後相良氏との合戦の際に、手勢松山衆を率いて伊集院忠棟に属し、軍功をあげた。

一条信竜(いちじょう のぶたつ)  ? 〜1582

武田二十四将の一人で信虎の八男、信玄の異母弟にあたる。甲斐の名門一条氏の跡を継ぎ、親族衆として活躍。武田家滅亡時には勝頼が小山田信茂を頼って新府城から脱出した後の城を守り、攻め上った徳川家康軍と激戦の末捕らわれて斬首された。

一宮宗是(いちのみや むねこれ)  ? 〜1560

今川義元の家臣で出羽守を称す。天文二十三年、武田信玄の信濃侵攻に際し、甲相駿三国同盟の誼をもって今川義元が甲斐へ援軍を派遣したときの侍大将を務めた。永禄三年の桶狭間の戦いで討死した。

市橋長勝(いちはし ながかつ) 1557〜1620

長利の子。通称九郎左衛門、従五位下下総守。美濃福束のち今尾城主。はじめ織田信長のち豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の際には東軍に属して福島正則らと福束城を落とす。その後福束城にあって上方から大垣城への連絡路を絶ち、密使を度々捕らえた。のち伯耆矢橋を経て元和二年に越後三條二万石の加増を受け、合わせて四万千三百石を領した。

一色藤長(いっしき ふじなが)    ? 〜1596

晴具の子。室町幕府御供衆で義輝・義昭に仕える。通称七郎、将軍義輝の初名義藤の偏諱を受け藤長と名乗り、のち剃髪して一遊斎と号す。天文六年式部少輔、二十一年に従五位下に叙任。永禄八年の義輝暗殺の際には細川藤孝らとともに興福寺一乗院覚慶(義昭)の奈良脱出に尽力、以後義昭の側に仕えた。慶長元年四月九日没。甥に金地院崇伝がいる。

伊東重信(いとう しげのぶ)    ? 〜1588

肥前守。伊達氏十一世持宗以来の譜代重臣で、陸奥国分北目城代官(城番)を務める。人取橋の合戦では一隊の将となって活躍、高倉城を守った。1588年に安積郡窪田で佐竹・蘆名連合軍と戦い、奮戦したが討死にした。

伊藤盛正(いとう もりまさ)    ? 〜1623

美濃舟岡城主盛景の子で通称半九郎または彦兵衛、同大垣城主。初名は長玄、のち盛宗・盛政・利吉とも。関ヶ原の際に西軍に属し、城を三成に明け渡す。前哨戦で東軍の市橋長勝に敗れ、決戦後に降伏、所領を没収され図書と改名して前田利常に仕えたという。

伊東義祐(いとう よしすけ)  1512〜1585

日向都於郡城主。大和守尹祐の二男で初名祐清。天文六年従四位下に叙し将軍義晴より諱を拝領、義祐を名乗る。同十五年十二月には従三位に昇り、のち剃髪して三位入道と称した。元亀三(1572)年五月の木崎原合戦で島津方に敗れて以来勢力が衰え、天正五年十二月にはついに都於郡城を落とされて豊後へ脱出、日向を奪われた。以後流浪の末に同十三年八月五日、堺で客死。

伊奈忠次(いな ただつぐ)   1550〜1610

徳川家康の家臣で備前守を称す。はじめ徳川信康に仕えたが、信康自刃の後は堺に居を移し、本能寺の変の後帰参。以後家康の近侍として行政面で活躍、その農耕法は「伊奈流」と呼ばれ以後幕府の基本政策となった。

稲富祐直(いなどめ すけなお) 1552〜1611

元は丹後忌木城主の一色家臣で稲富流砲術の祖。姓は「いなとみ」とも読む。鉄砲の達人で主家滅亡後は細川忠興・松平忠吉を経て尾張義直に仕え、江戸幕府の砲術指南役となる。近江国友村の鉄砲鍛冶集団の組織にもたずさわったとされる。

稲葉一鉄(いなば いってつ)  1515〜1588 

美濃斎藤家の重臣で、氏家直元(ト全)・安藤守就とともに(西)美濃三人衆と呼ばれた曾根城主。姉川の合戦では家康に加勢し奮戦、信長より家康に次ぐ功として賞された。頑固な性格で知られ、後の「一徹者」の語源となったことでも広く知られる。七度も名を変えているが、本名は良通。

稲葉貞通(いなば さだみち)  1546〜1603

良通(一鉄)の嫡子で通称彦六、右京亮・羽柴郡上侍従を称す。はじめ織田信長、のち豊臣秀吉に仕える。父の後を嗣ぎ美濃曾根城主となり、関ヶ原の際にははじめ西軍に属すが、決戦直前に井伊直政・本多忠勝を介し東軍に通じて赦され、戦後豊後臼杵五万石の城主となった。

稲葉正成(いなば まさなり)  1571〜1628

美濃十七条城主林政秀の子で、稲葉重通の婿となる。通称は八右衛門、内匠・佐渡守を称す。はじめ羽柴秀吉に仕えるが、後小早川秀秋の家老となり、関ヶ原では煮え切らない秀秋を説得し徳川方に付かせた。戦後秀秋に愛想を尽かし主家を辞し、家康に召し出され美濃羽栗郡で一万石を領した。継室の福(斎藤利三の娘)は後の春日局。

猪苗代盛国(いなわしろ もりくに) 生没年不詳

元は会津蘆名氏一族で猪苗代城主。一旦家督を子の盛胤に譲って隠居したが、廃嫡を図り城を奪ったため父子で戦った。のち伊達成実の臣羽根田直景を介して政宗に仕え、摺上原の戦いでは一策を献じ伊達軍大勝の一翼を担う活躍をした。

井上清政(いのうえ きよまさ)  生没年不詳

信濃高井郡井上を本拠とした土豪で、通称兵庫、播磨守を称す。はじめ村上義清の傘下にあったが、義清が武田信玄から信濃を追われるとこれに従い、上杉謙信の家臣となる。本能寺の変後上杉景勝の北信濃進出に伴い本拠に戻ったという。

井上元兼(いのうえ もとかね) 1486〜1550

河内守光兼の子で安芸毛利氏譜代家臣中最大勢力を誇った井上党の領袖。元就の家督相続実現に協力したが、次第に元就の指図にも従わずわがままな言動が目立ちだしたため、天文十九年元就の命を受けた福原貞俊・桂元澄らに襲われ自刃、一族は粛清された。

井上之房(いのうえ ゆきふさ) 1554〜1634

之正の子で黒田氏の重臣。播州姫路に生まれ、黒田(小寺)職隆・孝高(如水)・長政・忠之四代に仕えた。黒田八虎あるいは黒田二十四将の一人に数えられる勇将で幼名弥太郎、通称九郎右衛門のち周防(守)、入道して道柏と号す。関ヶ原の際には如水に従い、豊後石垣原で大友方の勇将吉弘統幸を討ち取る大功を挙げた。戦後黒田氏の筑前入国の際に黒崎城築城を命ぜられ、遠賀郡一円で一万六千石を領した。寛永十一年十月二十二日没。

猪子高就(いのこ たかなり)   ? 〜1582

通称兵助。はじめ斎藤道三、のち織田信清を経て織田信長の近侍となる(経歴には異説あり)。以後度々軍使として活躍、紀伊雑賀・根来攻めや播磨三木城攻めに従軍。本能寺の変の際に信忠とともに二条御所で討死。

伊庭貞隆(いば さだたか)   生没年不詳

近江守護六角高頼の重臣で出羽守を称す。1502年と1514年の二度にわたって主君高頼と対立して戦う(第一次・第二次伊庭の乱)。二度目の戦いの際には浅井亮政の支援を受けて足かけ6年にも及ぶ抵抗をするが、結局は敗れ制圧された。

指宿忠政(いぶすき ただまさ) 1543〜1625

薩摩島津氏の家臣で、通称清左衛門。島津氏の重臣で日向高城城主山田有信・有栄に属す。天正十五年の秀吉の九州攻めの際には山田有信とともに高城を守り、開城後は都於郡に退去した。関ヶ原の際には義弘に従軍、敵中突破の退却戦を経て義弘とともに帰還した。

今川氏真(いまがわ うじざね) 1538〜1614

義元の長男で、武田信玄の孫に当たる。父義元の死後は朝比奈信置ら家臣にも離反され家康・信玄の侵攻を支え切れず、永禄十二年五月、北条氏康のもとへ逃れて領国を失った。和歌を冷泉為和から、蹴鞠を飛鳥井雅綱からそれぞれ学び、後半生は武将というよりも和歌や蹴鞠に長じた文化人として生きた。

今川義元(いまがわ よしもと) 1519〜1560

氏親の三男。太源雪斎に学び、異母兄である玄広恵探(げんこうえたん)との後継ぎ争いに勝ち(花倉の乱)駿河国主に。「海道一の弓取り」といわれ京風文化にも精通していたが、四万の大軍を率いての上洛途中に豪雨の桶狭間で休息中、織田信長勢二千による奇襲を受け戦死。

芋川正親(いもかわ まさちか) 1539〜1608

名は親正とも。信濃水内郡芋川を本拠とした土豪で、越前守を称す。上杉氏のち武田氏に属し長篠合戦に参加。武田氏滅亡後は新領主森長可に反乱を起こしたが失敗、上杉景勝のもとへ身を寄せる。景勝の会津移封に伴い、陸奥信夫郡大森城主(城代)となった。

入来院重聡(いりきいん しげさと) 生没年不詳

重豊の子で、薩摩入来院氏第十一代当主。名は「しげふさ」とも読む。薩摩隈之城を本拠とし、本領入来院の他に筑前・筑後にも領地を有した。永正年間の三国大乱ののち島津忠良・貴久に従い、天文六年の竹山砦攻めなどで軍功をあげた。

入来院重嗣(いりきいん しげつぐ) 生没年不詳

重朝の子で、薩摩入来院氏第十三代当主。通称又五郎、加賀守を称す。島津氏の家臣でありながらも、北薩摩の有力国衆として独自に行動した。元亀元年、祁答院(けどういん)氏らいわゆる渋谷五族のうち、残った東郷氏当主重尚とともに所領を島津義久に献じ、改めて入来院清敷の領有のみ認められた。

入来院重時(いりきいん しげとき)  ? 〜1600

相州家出身で佐土原島津氏初代以久(ゆきひさ)の二男で、入来院重豊の養子となり同氏第十五代当主となる。通称は又六。義弘に従い朝鮮の役・関ヶ原に従軍。慶長四年の荘内の乱の際には、家康から叱責され釈明謝罪に上京した家久に同道。関ヶ原の後程なく歿し、家督は養子としていた島津義虎の子重高が嗣いだ。

入来院重朝(いりきいん しげとも) 生没年不詳

重聡の子で、薩摩入来院氏第十二代当主。通称又五郎、石見守を称す。天文八年、島津忠良・貴久父子と薩州家島津実久が争った際には忠良側に付き、市来攻め・百次城攻めに従軍し戦功をあげる。しかし同十三年、祁答院(けどういん)・東郷氏らと謀反するとの噂により貴久から所領を没収され、翌年以降は忠良・貴久と戦った。

入来院重豊(いりきいん しげとよ)  ? 〜1583

重嗣の子で、薩摩入来院氏第十四代当主。通称又五郎、弾正少弼を称す。天正二年、島津家に対しての謀反の噂が流れたため、当主義久に神文(血判起請文)を認め異心なきを示し、山田・天辰・田崎・寄田を献上、義久は寄田を返付し本領入来院七十五町を安堵した。

色部顕長(いろべ あきなが)    ? 〜1587

上杉謙信の家臣。越後揚北(あがきた)衆の一人で岩船郡平林城主。勝長の子で修理亮。はじめ弥三郎と称したが父勝長の戦死後家督を嗣ぎ、上杉謙信から顕長の名を賜る。天正四年頃家督を弟長実に譲り隠居した。

色部勝長(いろべ かつなが)    ? 〜1568

越後揚北(あがきた)衆の一人で岩船郡平林城主。遠江守憲長の子で修理進を称す。上杉謙信の家臣となり川中島の合戦の際には謙信から「血染めの感状」を賜る。永禄十一年、謀反した本庄繁長の籠もる本庄城攻囲中に繁長の夜討ちを受けて戦死。

色部長実(いろべ ながざね)    ? 〜1592

上杉謙信・景勝の家臣、名は長真とも書く。越後揚北(あがきた)衆の一人で岩船郡平林城主。顕長の弟で修理大夫。はじめ惣七郎と称したが、永禄九年に兄顕長から長実の名を賜る。御館の乱の際には景勝側につき、天正八年には石船神社を再建した。

岩井信能(いわい のぶよし)    ? 〜1620

上杉謙信・景勝の家臣。備中守昌能の子ではじめ信濃水内郡の土豪だったが、武田信玄に追われ父と共に上杉謙信を頼り、小姓となる。勇武また智才分別ある武将として知られ、景勝の近習として重用された。茶の湯の達人とも伝えられる。

岩城貞隆(いわき さだたか)  1583〜1620

佐竹義重の三男で通称忠次郎、佐竹義宣の弟。岩城忠隆の養子となり家督を嗣ぎ、陸奥岩城平城主となる。関ヶ原の際の不参加を咎められ家康から所領を没収されたが、大坂の役では本多正信に属して参陣、元和二年に信濃川中島一万石の大名に返り咲いた。

岩切善信(いわきり よしのぶ) 生没年不詳

薩摩島津氏家臣。左京亮信朗(可楽)の子で三河守のち可春を称す。父可楽から兵術を学び、弘治三年には島津忠良に属して蒲生範清攻めに従軍。豊後大友氏・日向伊東氏攻めにも従い、慶長四年の荘内の役の際には凱歌を唱えたと伝えられる。

犬童頼兄(いんどう よりもり) 1568〜1655

美作守頼安の子で肥後相良氏の重臣。通称清兵衛、後に相良兵部を称す。十四歳の時に父頼安とともに水俣城に籠城、その後父の隠退と引き替えに長毎の家老となる。関ヶ原の際は長毎を西軍から東軍に寝返らせ相良家を救うが、長毎歿後に専横の振る舞いありと当主頼寛が幕府に訴え、ために津軽へ流された。

犬童頼安(いんどう よりやす) 1521〜1606

美作守重安の子で肥後相良氏の重臣。通称軍七、美作守を称す。相良長定与力の犬童一族が皆殺しにされた中、ただ一人幼少のため難を免れた。出家して伝心と称したが、後に帰参を許されて還俗。以後獺野原(うそのばる)の戦い・水俣城籠城戦などでその武勇を顕わし、義陽歿後の幼主長毎を補佐した。晩年再び出家し休矣と称した。



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