戦国を生きた男たち
《 武将編 む: 向井正綱〜村田宗殖

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

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向井正綱(むかい まさつな)  1557〜1625

元伊勢北畠氏家臣で、武田家に引き抜かれて仕えた駿河持舟城主向井政勝の二男。武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、豊臣秀吉の小田原攻めの際にも水軍を率いて参陣。水軍の手薄だった徳川家の船奉行に任命された。

宗像氏貞(むなかた うじさだ) 1545〜1586

正氏(黒川隆尚)の子で筑前宗像郡宗像神社大宮司。幼名鍋寿丸、はじめ大内氏に属すが義隆自刃後は大友氏に属す。しかし毛利氏の勢力が強大になるとこれと結び、以後大友氏と交戦したが毛利氏が九州を撤退するに及んで再び大友氏と和し、臼杵鑑速の娘を妻に迎えた。天正十四年三月四日病没、享年四十二歳。

村井貞勝(むらい さだかつ)    ? 〜1582

長門守、のち春長軒を称す。娘は佐々成政の妻。織田信長家臣で京都所司代を務めた。主に内政を担当、信長と将軍義昭の対立時にはその間を取り持ち、安土城築城などにも貢献した。本能寺の変の際に信忠に殉じ二条御所で自害した。

村井長頼(むらい ながより)  1543〜1605

長忠の子で通称又兵衛、のち豊後守。はじめ前田利家の兄利久に仕えたが、利久が信長の命により家督を利家に譲ってからは利家に仕えて加賀前田家の重臣となり、金沢町奉行を務め一万石余りを領した。慶長十年十月二十六日、江戸で没した。

村尾重候(むらお しげあり)  生没年不詳

薩摩島津氏家臣。薩摩入来院氏の一族で通称源左衛門。元亀三年の木崎原合戦では義弘に従い出陣、遠矢下総らとともに本地原に伏兵として置かれ活躍、伊東氏を撃破した。慶長四年の荘内の乱の際には新納忠元らと伊集院忠真方大隅山田城を攻略。翌年にも伊東氏の軍を破った。

村上景広(むらかみ かげひろ) 1555〜1627

名は成豊とも。隆重の二男で通称八郎左衛門、少輔五郎・弾正を称す。「景」は小早川隆景の偏諱。兄吉種が側室の子だったことから家督を嗣ぎ、備中笠岡城主となる。天正四年二月には足利義昭を警護して備後鞆の浦に送り、続いて同年の木津川海戦、同九年の備前八浜合戦等に活躍した。関ヶ原の際には西軍に属して伊勢湾で活躍するが、戦後浪人し慶長六年に細川忠興に招かれ豊前小倉一万石を領した。

村上亮康(むらかみ すけやす) 生没年不詳

名は祐康とも。弥次郎尚吉の子で新蔵人吉充の弟。左衛門大夫を称す。備後鞆の浦・大可島城将を務め、小早川隆景の指揮下で鞆の津方面の海将として神辺城攻めや備中の三村元親攻め等に活躍した。天正四年二月、足利義昭が備後鞆の浦に流れてきた際にはこれを警固、石山本願寺救援における木津川の海戦にも参戦して活躍した。

村上隆重(むらかみ たかしげ) 生没年不詳

左近大夫。能島村上氏三代隆勝の子ではじめ宗勝を名乗るが、のち小早川隆景より隆の字を拝領して隆重と改めたという。備後田島天神山城から備中笠岡山城に拠り、笠岡掃部と呼ばれた(笠岡村上氏の祖)。能島村上氏第五代当主武吉の叔父にあたり、若年時の武吉を助けてその家督相続に貢献、のち小早川隆景の傘下に属した。

村上隆勝(むらかみ たかかつ) 1477〜1527

山城守。能島村上氏二代雅房の子で三代当主。父雅房とともに京を追われ西国へ下向してきた足利義稙を歓待した。義稙の上洛時には海上の先陣を務め、船岡山・八幡の戦いなどでも戦功を挙げた。

村上武吉(むらかみ たけよし) 1533〜1604 

義忠の子で幼名道祖次郎、のち小輔太郎、武吉を名乗る。瀬戸内海を支配していた伊予能島城・能島村上氏第五代当主。掃部頭のち大和守。後の毛利水軍の中心人物となり小早川隆景の傘下に属した。秀吉から海賊行為を咎められ晩年は不遇であった。なお、武吉の著した「村上舟戦要法」は、かの日本海海戦でも参考にされたほどであったという。

村上元吉(むらかみ もとよし) 1553〜1600

武吉の嫡子で通称小輔太郎、掃部頭を称す。天正四年の摂津木津川口海戦では父武吉の名代として能島水軍を率いて参戦、毛利水軍の事実上の総司令官を務めた。関ヶ原の際には蜂須賀家政の城を請け取りに阿波に赴き、続いて加藤嘉明の伊予松前城請け取りに出向いた際に城兵の抵抗に遭い戦死した。

村上義清(むらかみ よしきよ) 1501〜1573

左衛門督、周防守。北信濃の土豪で葛尾城主。武田信玄の度々の侵略に対抗し互角に戦い、上田原の合戦では信玄を破る。しかし、支城を次々に落とされ、ついには長尾景虎を頼り越後へ脱出。景虎の加勢を受けるも旧領復帰は果たせず、越後根知城にて病没した。

村上吉充(むらかみ よしみつ) 生没年不詳

弥次郎尚吉の子で又三郎のち新蔵人を称す。妻は毛利氏の海将乃美(浦)宗勝の妹。瀬戸内海を支配していた海賊武将因島村上氏第六代当主。小早川隆景に協力して厳島合戦には家老の末長景道を派遣、防長侵攻時には関門海峡を封鎖するなど活躍、豊前門司城攻略時にも小早川水軍の一翼として勇戦した。養嗣子吉亮は弟亮康の三男。

村越直吉(むらこし なおよし) 1562〜1614

通称茂助。家康家臣でその木訥な性格を愛され、側近吏僚の中心的存在として活躍した。彼が気に入った秀吉からの誘いもきっぱり断ったという。関ヶ原の際には清洲城へ家康の命により開戦命令を伝えに赴いたことで知られる。

村田経定(むらた つねさだ)  生没年不詳

薩摩島津氏家臣。武秀の子で越前守を称す。明応四年に追放された譜代家臣村田氏は、経定の時に再び忠良に仕える。天文八年以降、忠良・貴久・義久の家老を務めたが、野村是綱暗殺共謀の廉で家老職を解かれた。蒲生北村攻めで義弘の先陣として活躍するなど軍功多数。

村田宗殖(むらた むねふゆ)  1534〜1596

民部少輔。名は「むねたね」と読む書も。伊達晴宗の子で柴田郡七郷三万石の領主村田近重の娘に配されて村田家を嗣ぎ、一家に列せられた。後に大坂の陣の際に病と称し参陣しなかったため政宗の怒りに触れ、三百石に減封されたという。



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