戦国を生きた男たち
《 武将編 に: 新野親矩〜丹羽長秀

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

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新野親矩(にいの ちかのり)    ? 〜1564

駿河今川氏の一族で、遠江小笠郡新野新城の城主。代々左馬助を称す。永禄五年に井伊直親が今川氏真に殺害されたとき、遺児万千代(後の直政)を引き取り養育したことで知られる。しかし同七年、氏真に背いた曳馬(引馬)城主飯尾連竜討伐戦において戦死した。

新納忠元(にいろ ただもと)  1526〜1610

加賀守祐久の子で薩摩島津家の重臣。薩摩大口・肥後御船地頭で通称次郎四郎、刑部大輔のち武蔵守を称す。菱刈氏との大口城合戦をはじめ、数多くの合戦に戦功を顕わす。貴久の使者や義久の奏者も務め、また和歌などもよくした文武両道の名将で、「二才咄(にせばなし)格式定目」を定める一方その武勇は秀吉をも感嘆させ、「鬼武蔵」と恐れられた。

新納久饒(にいろ ひさあつ) 生没年不詳

島津氏の家臣。伊勢守康久の長男で通称右衛門佐、五郎左(右)衛門。薩摩隈城地頭。天正十年の対龍造寺氏、翌年の対阿蘇氏に出陣、同十三年には肥後合志城を攻略する軍功をあげた。いわゆる軍師を務め、軍神勧請・勝吐気役にあたったという。

新納康久(にいろ やすひさ) 生没年不詳

島津氏一族新納氏庶流友義流忠澄の子で伊勢守を称す。伊作家島津忠良の家老を務める。天文八年の実久方大山内蔵介の拠る薩摩加世田城攻めで活躍し、城を落とす。のち同十七年には伊集院忠朗に代わって薩摩市来鶴丸城を守備した。

新納旅庵(にいろ りょあん)  1553〜1602

伊勢守康久の二男で久饒の弟。長住、休閑斎。島津氏の重臣で日向高原・大隅栗野・薩摩市来地頭。十七歳の時に上京し、遊行上人のもとで各国を遍歴して修行、のち薩摩に戻り八代荘厳寺住持となるが、天正十五年に義久の命により還俗、義弘の家老を務めた。朝鮮の役・関ヶ原で活躍、戦後は家康との間で島津家本領安堵に奔走した。

仁科盛信(にしな もりのぶ)  1557〜1582

武田信玄の五男で通称は高遠五郎、信濃の名族仁科氏を嗣いだ高遠城主。勝頼を補佐し家臣にも慕われたが、斜陽の武田家を立て直すことは出来ず、信長の嫡子信忠の指揮する大軍に攻められ、城兵共々奮戦したが落城、自害した。

楡井親忠(にれい ちかただ)  生没年不詳

越後弐之分の国人楡井治部少輔の子で、上杉謙信・景勝の家臣。通称修理亮、天正はじめ頃には板木城主を務める。御館の乱の際には景勝側につき軍功を揚げ、闕所地六十貫余りを宛われた。

丹羽長重(にわ ながしげ)   1571〜1637

長秀の嫡子で通称五郎左衛門、加賀守・羽柴松任侍従を称す。父長秀歿後に大封を相続するが、度重なる家臣の軍律違反により減封。関ヶ原では西軍に属し失領するが、慶長八年に常陸古渡一万石を与えられた。大坂の陣で戦功を挙げ、最終的には陸奥白川城十万石の主。

丹羽長秀(にわ ながひで)   1535〜1585

長政の子。織田信長の重臣で幼名万千代、通称五郎左のち越前守を称す。地味ながらも実力を持った武将で、信長の下では「米五郎左」と呼ばれ、天正三年には惟住姓を賜った。本能寺の変以降は秀吉の協力者として活躍、賤ヶ岳の戦功により若狭・越前・加賀半国を与えられ越前北ノ庄城主となったがそれも束の間、2年後に北ノ庄城で病死した。



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