戦国を生きた男たち
《 武将編 せ: 関口氏広〜専当安家

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

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関口氏広(せきぐち うじひろ)    ? 〜1562

駿河今川氏家臣で刑部少輔を称す。名は親永・親氏とする場合も。今川氏一族で、義元の妹婿にあたる駿河用宗(持舟)城主。娘は徳川家康の正室築山殿。桶狭間の戦いで義元が討死して後、永禄五年に自刃した。

瀬戸口重治(せとぐち しげはる)  生没年不詳

島津義久家臣で後に東郷氏を称す。天文二十三(1551)年の岩剣城の戦いにおいて、義久の旗指役を務めた為治の二男。通称は与助、弥七、安房介。天正十二(1584)年には唐船役を務め、朝鮮の役の際には義弘に従って渡鮮した。弟に剣の達人で薩摩示現流の祖として知られる東郷重位がいる。

瀬上信康(せのうえ のぶやす)  1553〜1617

通称又四郎、中務のち摂津守を称す。名は景康とも。伊達輝宗・政宗の家臣で陸奥信夫郡大笹生城主。相馬の役の際には一隊を率いて輝宗に従い、以後数々の戦いに参加。主に城の守備を命じられたがこれを立派に果たした。

仙石秀久(せんごく ひでひさ) 1552〜1614

豊臣秀吉の家臣で通称権兵衛、越前守を称す。淡路洲本、聖通寺城主を経て信州小諸城主を務める。秀吉の九州征伐の際に、長宗我部元親と意見が合わず無理に攻めたため島津方の計略に掛かり大敗した。盗賊石川五右衛門を捕らえた事でも有名。

専当安家(せんとう やすいえ) 1552〜1614

土佐長宗我部氏の家臣。左京亮秀家の子で左衛門大夫を称す。香美郡韮生郷の久保氏攻略に戦功をあげ、以後元親に従い阿波・讃岐方面を転戦した。以後物部川上流の仙頭を本拠とするが、主家滅亡後は帰農し村役人として生き延びたという。



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