戦国を生きた男たち
《 武将編 つ: 津軽為信〜角隈石宗

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒] に関連ページあり。


津軽為信(つがる ためのぶ)  1550〜1607

大浦守信の子で右京大夫を称す。元は大浦姓を名乗り南部氏の被官だったが、南部家津軽郡代の実力者・石川(南部)高信を欺いて攻め滅ぼし独立。小田原攻めの際にいち早く秀吉にまみえて臣従し所領を安堵され、ついに津軽を手中にした謀略家。関ヶ原では東軍に属し、大垣城攻撃に参加した。

筑紫広門(つくし ひろかど)  1556〜1623

惟門の子で筑後上妻郡山下城主。名は義冬とも言い、左馬頭・上野介を称す。豊臣秀吉の九州征伐の際に傘下に入り本領を安堵され、朝鮮の役で活躍。関ヶ原の際には西軍に属したため戦後失領、肥後の加藤清正から招かれた際に剃髪して夢庵と号す。清正歿後は細川忠興の斡旋で家康に仕えたという。

津田景康(つだ かげやす)   1564〜1638

伊達家家臣で佐沼城主。はじめは湯目氏を称していたが、豊臣秀次失脚事件の際には伏見津田ノ原にて秀吉に謁して主人政宗の潔白を愁訴、その疑惑を解いたことから政宗が忠誠を賞し、加領と同時に津田姓を名乗らせたという。人取橋の合戦をはじめ、数多くの合戦で活躍した。

津田算長(つだ かずなが)   1500〜1568

通称監物の名で知られる、砲術津田流の祖で紀州の鉄砲集団・根来衆の頭領。名は「さんちょう」と読む場合もある。自ら薩摩種子島に渡って当主の種子島時堯から一挺の鉄砲を購入し、紀州に初めて鉄炮を持ち帰ったと伝えられる。帰国後直ちに芝辻清右衛門にこれを複製させ、根来・雑賀衆の鉄炮集団としての下地を作った。

筒井定次(つつい さだつぐ) 1562〜1615  →戦国筒井氏

慈明寺順国の子で幼名小泉四郎、筒井順慶の従兄弟に当たる。大和郡山のち伊賀上野城主、羽柴伊賀侍従。順慶の養嗣子となり没後に筒井家を継ぐが天正十三年伊賀へ移る。関ヶ原の際には東軍に加担するが、出陣中に居城を奪われる。戦後所領安堵されるが慶長十三年に素行と治政の不行き届きをて家老中坊秀祐が幕府へ訴え出たことにより改易、鳥居忠政預けとなった。大坂の役の際に敵方内通を疑われ賜死。享年五十四歳。

筒井順慶(つつい じゅんけい) 1549〜1584  →戦国筒井氏

順昭の子で初名藤勝のち藤政、元興福寺官符衆徒の大和郡山城主。陽舜坊。永禄期〜天正五年の間、大和へ侵略してきた松永久秀と繰り返し戦うが、織田信長の助けもあり久秀滅亡後は大和一国を統治。山崎合戦の際の「洞ヶ峠をきめこむ(日和見をする意)」の故事で有名だが、順慶は洞ヶ峠には出陣しておらず、郡山城にあって善後策を協議していて秀吉方加担が遅れたため、後に秀吉から叱責された。信仰心が厚く、謡曲や茶にも堪能で教養ある武将として知られる。三十六歳の若さで病死。

筒井順興(つつい じゅんこう) 1484〜1535  →戦国筒井氏

順尊の二男で順賢の弟。順賢の跡を嗣いで筒井氏惣領となる。赤沢朝経・長経侵入を機に結成した国人一揆の維持に務めた。永正十七(1520)年には抗争を繰り返してきた越智氏と和睦、翌年六月には同氏の娘を娶る。畠山尚順の子稙長を助け、義就の子義英らと戦ったが享禄元(1528)年の柳本賢治の侵入や天文一揆の蜂起にも遭い勢力巻き返しには至らず、天文四(1535)年七月五日没した。享年五十二歳。

筒井順昭(つつい じゅんしょう) 1523〜1550  →戦国筒井氏

栄舜坊。順慶の父で興福寺官符衆徒。激動の大和にあって一時窮地に陥った筒井家を盛り返した。その死に際しては南都に住む黙阿弥という名の琴の師匠を自分の身代わりに立てて喪を秘すよう遺言、一族三老らはこれを実行して黙阿弥の用が済んだところで褒美を与えて元の身分に戻したことから「元の黙阿弥」の諺が生まれたという逸話は有名。天文十九年(1550)六月二十日、南都林小路の下館にて病没。享年二十八歳。生駒市上町の圓證寺に墓がある。没年には天文二十年説もある。

角隈石宗(つのくま せきそう)   ? 〜1578

立花道雪の師とも言われる豊後大友家の智将。義鑑・義鎮二代の軍師(軍配者)として活躍。義鎮の日向攻めの際には反対したが聞き入れられず出陣、敢えなく戦死した。



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