戦国を生きた男たち
《 武将編 わ: 脇坂安治〜和地誠春

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒] に関連ページあり。


脇坂安治(わきざか やすはる) 1554〜1626

秀吉の小姓上がりとして知られる「賤ヶ岳七本槍」の一人。通称は甚内、中務少輔を称す。朝鮮の役では九鬼嘉隆や加藤嘉明と共に豊臣水軍の将として活躍。赤井直正から贈られた珍獣・貂(てん)の皮を家宝として所持したことで名高い。関ヶ原では大谷吉継の指揮下に属したが、戦いの最中に西軍から東軍に寝返った。後に伊予大洲五万三千石の主となる。

分部光嘉(わけべ みつよし)  1552〜1601

元は織田信包の家老。次いで秀吉に仕え、赤母衣衆を務めた。後に伊賀上野一万石の城主に。関ヶ原では東軍に属し、戦後加増された。

和田昭為(わだ あきため)   生没年不詳

安房守。常陸国佐竹氏の重臣。義昭・義重・義宣の三代に仕えた。一時主家に離反し白川結城氏に属したことがあったが、程なく帰参。以後常に君側にあり、内政と外交に活躍したと伝えられる。

和田惟政(わだ これまさ)   1532〜1571

近江甲賀郡の出自で、足利義輝・義昭の家臣。参考までにルイス・フロイスは「わた」殿と呼んでいる。義輝暗殺事件の後、弟義昭を擁立すべく細川藤孝らとともに奔走した。信長にも初め重用され摂津高槻城主となるが、後に対立して芥川城で籠城抗戦の末に中川清秀に討たれた。キリシタンを保護したことで知られるが、惟政自身は受洗していないようである。

渡辺 了(わたなべ さとる)  1562〜1640

通称勘兵衛。羽柴秀勝、中村一氏、増田長盛と仕え、関ヶ原敗戦での大和郡山城開城時の際だった進退で注目を浴び、この後藤堂高虎に仕えた。「槍の勘兵衛」と恐れられたが、一匹狼的性格が災いし主君高虎と対立して退転、侍を捨て睡庵を名乗り京で隠棲した。

渡辺 通(わたなべ とおる)    ? 〜1543

毛利元就に成敗された譜代重臣勝の子。父勝の誅殺の際に備後へ逃れたが、甲山城主山内直通の取りなしで後に帰参、以後侍大将として活躍。天文十二年石見侵攻に失敗した大内氏が退却する際、殿を務めた元就の身代わりとなり尼子勢を一手に引き受けて壮絶な戦死を遂げた。

渡辺 勝(わたなべ すぐる)    ? 〜1524

安芸毛利氏譜代の重臣。元就の家督相続時には連署状を井上元兼と猿掛城へ届けるなど協力したが、後に尼子経久に通じ元就の庶弟元綱擁立に加担したため、元就に謀られて吉田郡山城に呼び出され成敗された。

渡辺 長(わたなべ はじめ)    ? 〜1612

通の嫡子。幼名は虎法師、小三郎。後に石見守・飛騨守。天文十七年の備後神辺の戦いを皮切りに、弘治元年の厳島合戦や永禄四年の門司表の戦いなどに活躍した。天正十六年には毛利輝元に従って上洛、秀吉から豊臣姓と従五位下飛騨守を授けられた。

渡辺守綱(わたなべ もりつな)  1542〜1620

徳川家康の家臣。通称半蔵。槍の名手とされ、1557年に家康に仕えて以来各地を転戦して戦功を挙げ、特に三河八幡合戦での活躍により「槍の半蔵」の異名を持つ。後に尾張義直付けとなり、大坂の陣にも参陣した。

亘理元宗(わたり もとむね)  1530〜1594

伊達家重臣。伊達稙宗の子で晴宗の弟。亘理宗隆の養子となり亘理郡亘理城主となる。兵庫頭、後入道して元安斎を名乗る。伊達輝宗・政宗に仕え、所領が近かったことから特に相馬盛胤との戦いで度々出陣、戦功を挙げた。

和地誠春(わち まさはる)    ? 〜1568

毛利元就家臣。和地氏は備後双三郡の国人で、はじめ尼子家に属したが誠春の代に毛利氏に従った。1563年、安芸佐々部蓮華寺で出雲出征に赴く毛利隆元を饗応した際、隆元が急死したため元就の疑惑を買い、1568年厳島で元就に殺された。



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