戦国を生きた男たち
《 武将編 や: 八木豊信〜山吉豊守

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

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八木豊信(やぎ とよのぶ) 生没年不詳

但馬養父郡八木城を本拠とする国人で、但馬守を称す。はじめは「山名四天王」の一人に数えられる守護山名氏の重臣であったが、山名氏家臣団の分裂弱体化を機に毛利氏に属す。しかし天正八年、羽柴秀長・宮部継潤の但馬攻めに抗しきれず秀吉方に降伏、のちに因幡若桜鬼ヶ城の守将を務めたという。

八木正信(やぎ まさのぶ) 生没年不詳

薩摩島津氏家臣。名は昌信とも。越後守・主水佐を称す。青蓮院尊朝親王の門下で書を学び、のちに義久の右筆を務めた。天正元年、義久の禰寝重長攻めに従い、宝持院とともに講和使を務め重長に降伏状を認めさせた。同十四年には吉書初めに列し、右筆を務めた。

柳生宗矩(やぎゅう むねのり)  1571〜1646

徳川家康・秀忠・家光の家臣。宗厳の五男で初名は宗頼、通称は又右衛門、後に但馬守を称す。剣術将軍秀忠・家光の剣術指南役として抜擢され、家光のもとでは惣(大)目付の重職に就き諸大名を監視、ついに大和柳生一万二千五百石の大名にまで昇進した江戸柳生家の祖。

薬師寺元一(やくしじ もとかず) ? 〜1504

名は与一とも。近畿管領細川政元に仕えた摂津守護代。1504年、政元が権力に驕り政務をおろそかにし出したため反抗、土一揆の加勢も得て山城淀城に立て籠もったが、弟与次(長忠)らに敗れて捕らえられ京都一元院で自害した。

矢沢頼綱(やざわ よりつな) 1518〜1597

薩摩守。真田幸隆の弟で、真田家の家老。若い頃出家し京都鞍馬の僧となるが、程なく郷里に戻って還俗して武田信玄に仕え、後に真田昌幸に属し厚い信任を得て沼田城代を務めた。

矢沢頼貞(やざわ よりさだ)  生没年不詳

但馬守。頼綱の子で、名は頼康とも伝えられる。真田昌幸・信之の家老。武勇に優れ、1585年の徳川勢との神川(かんがわ)の戦いでは、昌幸の指揮のもとで徳川勢を蹴散らしたという。

屋代景頼(やしろ かげより)  1561〜1608?

伊達政宗家臣。勘解由兵衛。代々国老を務めたが一時没領、政宗の代に再び出仕。伊達成実出奔事件の際にはその居城角田城を攻め、妻子や家臣を討ち取った。数々の合戦や粛清に活躍するが1607年に罪を得て改易され近江に流浪、不治の病を得て同地で歿したという。

安田顕元(やすだ あきもと)  1538〜1580

越中守景元の子。上杉謙信の家臣で通称掃部助、越後刈羽郡安田城主。本姓は毛利(北条毛利氏)。御館の乱の際には景勝側につき活躍したが、戦後の恩賞問題において新発田重家の希望がかなえられなかったため自害したという。

安田長秀(やすだ ながひで)   ? 〜1592

越後北蒲原郡の国人で、同安田城主。上杉謙信・景勝の家臣で通称は治部少輔。謙信の側近として数々の合戦に活躍、永禄四年の川中島合戦の際には「血染めの感状」を賜った。御館の乱の際には景勝側につき軍功をあげ、加増を受けた。

柳沢元政(やなぎさわ もとまさ) 1536〜1613

足利将軍家の臣。十二代義晴・十三代義輝・十五代義昭の三代に仕える。通称新右衛門尉、監物、従五位下讃岐守。義昭が京都を追放された際には紀伊由良を経て備後鞆まで同行した。その後毛利輝元に仕えるが、文禄役の際に豊臣秀吉の臣となって西国代官を務めた。秀吉没後に再び毛利輝元の臣に戻り、周防山口で没した。

柳本賢治(やなぎもと かたはる)  ? 〜1530

弾正忠。丹波八上城主波多野稙通・細川高国の重臣香西元盛の弟。大永六(1526)年七月に元盛が丹波守護細川尹賢に謀殺されたことから細川晴元に通じ、丹波の国人衆を率いて兄稙通とともに挙兵、高国に反抗した。翌七年二月に山城桂川原で高国勢を破り入京、享禄元(1528)年閏九月には大和へ侵入した。翌年にかけ再三大和を侵略するが、高国方についた浦上村宗攻撃に出陣中の享禄三(1528)年六月二十九日、高国の放った刺客に播磨東条谷玉蓮寺の陣中で殺された。

簗田政綱(やなだ まさつな)  1516〜1579

尾張・九之坪の郷士で通称弥次右衛門、左衛門尉のち出羽守。織田信長の家臣で、桶狭間合戦の際に今川義元本陣所在地の情報を探り出して道案内を引き受け、戦後勲功第一として沓掛三千貫を与えられた。天正三年に加賀天神山城主となるが再起した一向一揆の鎮圧に失敗、自ら安土に蟄居した。天正七年六月六日没と伝わる。

山浦景国(やまうら かげくに) 生没年不詳

信濃葛尾城主村上義清の子。通称源五、名ははじめ国清。義清が武田信玄に信濃を追われて上杉謙信を頼った際に父と同行、以後謙信の家臣となり外交・合戦・守備に活躍。天正七年に山浦氏の後を嗣ぎ、景勝の一字を拝領し景国と改名。関ヶ原の後は陸奥安達郡塩之森城代を務めた。

山岡景佐(やまおか かげすけ) 1531〜1589

美作守景之の二男で対馬守。もと六角氏に属した南近江の土豪で、近江膳所(ぜぜ)城主。名は景佑(景成)ともいう。本能寺の変の際には兄景隆とともに帰国する家康を護衛した。のち秀吉に属したが、賤ヶ岳の合戦の際に柴田勝家に内通したとされて所領を没収、のち徳川家康に仕え駿府に移った。法名宗入。

山岡景隆(やまおか かげたか) 1525〜1585

美作守景之の長子で美作守を世襲。もと六角氏に属した南近江の土豪で、近江勢多(瀬田)城主。父景之に続いて江南の旗頭と呼ばれ、山岡一族を束ねた。本能寺の変時に明智光秀の誘いを蹴り、瀬田の唐橋を焼き落として対抗したことは有名。この後は秀吉に属したが、賤ヶ岳の合戦の際に柴田勝家に内通したとされて所領を没収、天正十三年正月十四日に幽居先の甲賀郡毛牧(もびら)邑で歿した。

山岡景之(やまおか かげゆき) 生没年不詳

従五位下美作守。景就(景澄)の子で近江勢多(瀬田)城主。名は景久・景直(猶)・景冬とも。六角氏に属した南近江の土豪で、若くして父景就が死去したため隠居していた祖父景綱が勢多城に戻って景之を補佐した。文明・永正年間に江南の旗頭となり、数々の軍功を挙げる。妻は和田伊賀守惟政の娘。

山岡重長(やまおか しげなが) 1544〜1626

小成田長俊の子で前名小成田総右衛門。伊達輝宗・政宗の家臣で伊具郡金山城主。大崎の役では軍奉行を務め、また文禄の役では釜山で一騎駆けの若武者(実は女性)を生け捕ってこれを連れ帰り妻としたというエピソードを持つ。文禄三年政宗と共に秀吉に謁した際、命により山岡志摩と改名。大坂の陣の際にも活躍した。

山県昌景(やまがた まさかげ) 1530〜1575 

武田家重臣。信玄の重臣・飯富虎昌の弟で、初め飯富源四郎と称したが信玄の命で甲斐の名族・山県氏の名跡を継ぐ。「山県の赤備え」と呼ばれ恐れられた無敵の騎馬軍団を率いた。長篠の戦いでは再三の諫言も勝頼には聞き入れられず、全滅を覚悟の上で敵方の鉄砲隊に突撃を繰り返し、壮絶な戦死を遂げた。

山口宗永(やまぐち むねなが) 1545〜1600

豊臣秀吉の家臣。光広の子で名は正弘・宗長とも言い、玄蕃頭を称す。秀吉の養子秀俊(小早川秀秋)の後見人に命ぜられ、秀秋の越前移封とともにこれに従い、加賀大聖寺六万石を領した。関ヶ原の際には西軍に属し、籠城して前田利長勢の攻撃を支えたが、あまりにも兵力差があり力尽きて自刃した。

山崎片家(やまざき かたいえ) 1547〜1591

父は丹後守宗家。元六角義治家臣で志摩守を称した近江山崎城主。主君義治に女婿を謀殺されたため離反、以後織田信長に属す。後には秀吉政権下で摂津三田城主に任命された。

山田有栄(やまだ ありなが)  1578〜1668

薩摩島津氏の重臣。有信の嫡子で大隅福山のち薩摩出水地頭。通称弥九郎、民部少輔を称す。秀吉の九州攻めの際には人質として秀長のもとに赴く。朝鮮役・唐島海戦・荘内の変・関ヶ原などで数多い軍功の一方、用水溝の開発や特に薩摩武士の育成に力を注ぎ、出水兵児(へこ)の名を広く知らしめた。

山田有信(やまだ ありのぶ)  1549〜1609

薩摩島津氏の重臣。島津氏一族山田氏庶流有徳の子で貴久・義久に仕え、義久の家老を務める。通称新助、民部少輔のち越前守を称す。大友宗麟との耳川合戦の際に日向高城の守将として奮戦したのは有名。他にも島津義虎の謀反鎮圧・石城攻め・筑後堀切城攻めなどで軍功あり。のち秀吉から天草四万石を与えられるが返上、島津氏臣従を願い出たという。

山田長政(やまだ ながまさ)   ? 〜1630

駿河の染工(紺屋)山田九平次の養子九左衛門友昭の子(妻の連れ子という)で通称仁左衛門。慶長年間後半にシャム(現タイ)に渡ってアユタヤ王朝下で活躍、日本人町の頭領となる。戦功を重ねてリゴール(タイ南部のナコンシタマラート)王となったが、国王没後の王位継承争いに巻き込まれ毒殺されたという。しかし長政自体の存在を否定する向きもある。

山名豊国(やまな とよくに)  1548〜1626

一族間の争いや家老武田高信の離反などで揺らいでいた山陰の名族山名氏も、豊国がこれを収束して第十七代因幡守護の鳥取城主に。しかし、秀吉の山陰侵攻の前に降伏したため、家臣らに城を追い出された。後に秀吉の御伽衆となり、関ヶ原では東軍に参加。戦後徳川政権下で但馬村岡山名氏の祖となった。

山中長俊(やまなか ながとし) 1547〜1607

為俊の子で『中古日本治乱記』の著者。近江甲賀郡の出身で、初め六角氏に仕えていたが、信長の近江侵攻・六角氏の国外逃亡を機に織田家に仕え、柴田勝家に属し家老職を務める。勝家滅亡後は丹羽長秀に仕えるが、のち秀吉に召し出され右筆として仕える。関ヶ原では西軍に属したため所領を没収され京都に隠棲、そのまま歿した。

山中幸盛(やまなか ゆきもり) 1545〜1578 

通称鹿介。尼子家の勇将で主家復興に尽し奔走したが、上月城にて毛利軍の包囲に遭い、援軍の秀吉が兵を退いたため孤立し無念の降伏。この上は毛利家の当主・輝元と差し違えんと心中深く期したが、吉川元春に見破られ安芸国へ護送中に備中阿井(合)の渡で謀殺された。

山内一豊(やまのうち かずとよ)1546〜1605

通称猪右衛門、初代土佐藩主。信長・秀吉・家康に仕え、さほど武功があったわけではないが、妻との二人三脚でついに徳川政権下で土佐一国の太守の地位にまで昇った。

山本勘助(やまもと かんすけ) 1493〜1561

本名は晴幸、号は道鬼。活躍を示す確たる資料はないが「甲陽軍鑑」では武田家の軍師・参謀的存在とされ、また築城術にも優れ小諸城などの縄張り(設計)を行ったという。永禄四年の第四次川中島合戦で「きつつきの戦法」を考案するも謙信に見破られ、責任を感じて敵軍中に突入し戦死したと伝えられる。

山吉豊守(やまよし とよもり) 1541〜1577

政応の子で通称は孫次郎。上杉謙信の家臣で越後三条城主。初めは謙信の側近の旗本として馬廻り衆、永禄十年以降は奏者番を務め、対北条家との外交などに活躍した。天正三年の軍役帳では家中最多の377人を負担している。



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