守山崩れ
天文四年(1535)十二月五日

 松平清康が近臣の阿部弥七郎に殺害される。享年25歳。

 
 徳川家康の祖父である松平清康は蔵人信忠の子で、永正八年(1511)九月七日に生まれ、大永三年(1523)四月に十三歳で家督を嗣いでいた。当時安祥城(愛知県安城市)にいた清康は翌年五月、敵対していた松平(西郷)弾正左衛門信貞を攻め山中城(同豊田市)・岡崎城(同岡崎市)を奪い、本拠を岡崎城に移した。清康は智勇に優れ、また十四歳の時既に身長五尺八寸(約175cm)と大柄で力も強く、二十四〜五歳にも見えたと伝えられている。彼はあっという間に三河を切り従え、天文二年(1533)には甲斐の武田信虎が和睦の使者を送ってくる程までになっていた。

 天文四年(1535)十二月、清康は織田信秀の弟信光が拠る尾張守山城(名古屋市守山区)攻略を目指し、一万の大軍を率いて出陣した。しかしその際、清康に恨みを抱いていた上野城(同豊田市)の松平(桜井)内膳正信定は織田方に通じ、仮病を装って出陣しなかった。
 さて、清康の下にこの頃頭角を現していた阿部大蔵定吉という者がいた。ところが家中に定吉を妬む者があり、定吉は信定と申し合わせて織田信秀に内通しているとの風説が出陣前に流れた。清康は「敵方が我々を撹乱しようとして流した雑説である」と取り合わなかったが、これを聞いた定吉は仰天、出陣前に息子の弥七郎(正豊)を呼んで言い聞かせた。

「これは全くの濡れ衣だが、誰が言い出したかわからない以上どうしようもない。清康公から糾明があれば申し開きも出来るが、それもないまま無実の罪に陥れられ、末代まで逆臣の悪名を被ることはやりきれない。例え私が無実の罪を着せられようとも、お前は何としても逃れて私の無実を証明してくれ。それも許されないなら、即刻自害して反心なきことを明らかにせよ。くれぐれも父の冤罪を恨んで敵に内通などしてはならぬぞ」

 ところがこの日の早朝、陣中で馬が放たれて駆けめぐったため騒動が起き、清康も自らそこへ出向いて「陣の外へ出すな、早く木戸を閉めよ」などと大声で下知していた。寝起きにこれを聞いた弥七郎は父が誅殺されたものと早合点し、刀を取ってその場へ走り出していった。そして「逃がすな」と叫ぶ清康の後ろから斬りつけたのである。
 右肩から左脇まで斬り下げられた清康は、この一太刀で即死した。弥七郎は清康の側にいた植村新六郎に即座に討たれ、父定吉は捕らえられた。定吉は全てを語り、息子が重罪を犯した以上父たる自分は罪を逃れ得ない、即刻首をはねてくれと頼んだが、衆議により松平長親の裁定に従うべきだと決し、処分保留となった(後に許されている)。

 総大将を失った松平軍は織田攻撃どころではなくなり、三河へと退却を余儀なくされてしまった。これを世に「守(森)山崩れ」と呼ぶ。
 


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