椎津城の戦い
天文二十一年(1552)十一月四日

 里見義堯が上総椎津城を攻め、城将武田(真里谷)信政は自刃する。

 
 安房里見氏は天文七年(1538)の第一次国府台(こうのだい)合戦で小弓御所・足利義明に加担して北条氏綱と激戦を演じて以来、長きにわたって北条氏と抗争を繰り返していた。国府台合戦以前は、里見義堯が家中の内紛を制して家督を嗣いだ際、北条氏綱の援助があったことから義堯としては氏綱に恩を感じていた。しかし北条氏と対立する足利義明からの加担要請を断り切れず、結局義明に応じて氏綱と戦うことになる。戦いは北条方の大勝で足利義明は戦死という結末を迎えるのだが、里見氏にさほどのダメージがなく、加えて煙たい存在であった義明がいなくなったことから微妙に事情が変わる。
 やがて義堯が上総への進出を策して北条方の属城を攻めるようになると、対する北条氏も水軍を動員して安房へと攻撃をかけるなど両者は度々交戦するが、義堯はしぶとく持ちこたえた。

 そんな天文二十一年秋、北条氏綱の跡を嗣いだ氏康は万喜城(千葉県夷隅町)の土岐弾正少弼頼定と椎津城(千葉県市川市)の真里谷(まりやつ)三河守信政に対し、義堯討伐を依頼した。一説には信政が義堯討伐を策して氏康と話を進めていたともいうが、土岐頼定はこれを拒んで義堯に報せると義堯は急いで兵を集め、この日椎津城攻撃へと出陣した。
 佐貫城(千葉県富津市)に入った義堯は、ここで軍を五段に編成した。先鋒大将は土岐頼定、以下正木大膳亮時茂・里見義盛・里見義弘・安西勝高をそれぞれ大将に、総勢一万八千と伝えられている。
 真里谷(武田)信政は北条氏康に救援を求め、間宮豊後守らが人見崎に布陣して迎撃する。椎津城からは信政はじめ武田四郎次郎・西弾正敦忠らが城外へ出て陣を敷き、ついに戦端が開かれた。
 両軍に多数の死傷者が出る激戦となるが正木時茂らの活躍で里見方が大勝、真里谷方は主立った将がほとんど討ち取られてしまう。敗れた信政は城中へ逃げ戻って自刃、椎津城は落城した。これにより上総を手中にした義堯は、城に守兵を入れて久留里城(千葉県君津市)へと凱旋していった。
 


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