葛尾城の戦い
天文二十二年(1553)四月六日

 武田信玄が村上義清の埴科郡葛尾城を包囲する。義清は戦わずして脱出、越後の上杉輝虎(謙信)を頼る。

 
 村上氏は信濃埴科(はにしな)郡葛尾(かつらお)城(長野県坂城町)を本拠とする信濃北東部の有力国人で、義清の頃には佐久・小県(ちいさがた)・更級(さらしな)・埴科・高井・水内(みのち)の六郡を支配する大きな勢力となっていた。義清は文亀三年(1503)に顕国の子として生まれ、左衛門尉のち周防守を称すことになる。
 義清は猛将と呼ぶにふさわしい人物で、天文十年五月(1541)には諏訪頼重とともに信玄の父・信虎に加担、海野平の戦いで海野棟綱を破り、海野氏を信濃から追い出している。しかしこの直後に信虎は晴信(のち信玄)のクーデタにより駿河に追い出され、以後武田氏は信濃侵攻を開始、義清は武田晴信との対決を余儀なくされることになった。

 義清は何と言っても「信玄を二度破った男」として有名だが、最初は天文十七年(1548)のことである。前年に佐久郡の志賀城(同佐久市)を落とした晴信は、義清の支配する小県郡への侵攻を開始、迎え撃つ義清は二月十四日に上田原(同上田市)で武田軍と激突した。この戦いで義清は板垣駿河守信方・甘利備前守虎泰ら晴信の重臣を討ち取り、晴信をも負傷させるという会心の勝利を得る。

 二度目は同十九年のこと。この年の七月に晴信が小笠原長時の居城・林城(同松本市)を落とすと、長時は義清のもとへ逃げ込んだ。晴信が義清の持ち城で郡中最大の堅城といわれる砥石城(「戸石」とも書く・同上田市)へ押し寄せると、義清は兵を率いて救援に駆けつけた。晴信は九月九日から総攻撃をかけるが、城は堅牢で落とせず膠着状態となる。やがて武田軍が退却を始めると城内の兵が討って出、村上勢は壮絶な追撃戦の末に晴信の将・横田備中守高松を始め千余の兵を討ち取るという勝利を得た。この追撃戦は世に「戸石崩れ」と呼ばれている。

 しかし同二十年、晴信の将・真田幸隆の謀略により戸石城が奪われると、ここから義清の武運が傾き始めていった。頃は良しと判断した晴信は二十二年三月になって義清討伐に出陣、この日葛尾城を攻囲した。配下の国人衆が次々と武田方に走って孤立した義清は支えることが出来ず、戦うことなく葛尾城を脱出して越後の長尾景虎(のち上杉謙信)のもとに身を寄せた。
 この後義清は天正元年(1573)元旦、旧領回復を見ないまま越後根知城(新潟県糸魚川市)において七十三年の生涯を終えることになる。
 


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