松永久秀の墓

※中央の戒名が久秀、向かって右は嫡子久通のもの(合葬墓碑)。

☆関連武将☆

松永久秀(まつなが ひさひで) 1510〜1577 

大和信貴山・多聞山城主。従四位下弾正少弼、永禄十二年四月以降は山城守とも称す。山城西岡の商人の出自などとも言われ、前歴不明ながら戦国期屈指の謀略家で主の三好長慶から実権を奪い、時の将軍義輝を二条御所に攻め殺害した。永禄十(1567)年、筒井順慶・三好三人衆らとの南都における戦いで、兵火により結果的に東大寺大仏殿を炎上させる。のち信長に属すが再三背き、天正五年十月に信貴山城で自刃(一説に名器平蜘蛛茶釜とともに爆死)。奇しくもその日は大仏殿を焼いた日と同じ十月十日であった。

松永久通(まつなが ひさみち)   ? 〜1577

久秀の嫡子。永禄六年に従五位下右衛門佐に叙任、家督を譲られて多聞山城主となる。父久秀とともに行動する事が多く、将軍義輝殺害にも加担した。天正五年八月、突如信長に背いた父に従い、出陣中の摂津天王寺の砦から引き上げて信貴山城に籠もるが、織田信忠の大軍に攻め落とされ自刃した。

写真は京都市下京区の妙恵会(みょうえかい)墓地にある久秀・久通父子の合葬墓碑で、ここは元久秀の京都屋敷跡である。久秀は当時の本圀寺塔頭戒善院の檀徒で、天正年間に松永家の菩提を弔うため、その屋敷跡を当時の塔頭寺院墓地として寄付したと伝えられている。なお、久秀の墓と伝えられるものが奈良県王寺町の 達磨寺 と、同 三郷町 にある。法名は久秀「妙久寺殿祐雪大居士」、久通「高岳院久通居士」。

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