☆関連武将☆
九鬼守隆(くき もりたか) 1573〜1632
嘉隆の嫡子で幼名は孫次郎、従五位下長門守。友隆・光隆ののち守隆を名乗る。慶長二(1597)年に家督を嗣ぎ志摩鳥羽城主となるが、関ヶ原の際には東軍に属し、西軍に加担した父嘉隆と東西に分かれて戦う。戦後加増され鳥羽五万六千石を領し盲船や車輪船など独自の発想による軍船などを造るが、もはや九鬼水軍の活躍の場はなく、失意のうちに江戸屋敷で没した。
九鬼嘉隆(くき よしたか) 1542〜1600 
定隆の子で通称は右馬允、大隅守を称す。信長水軍の総帥で、元は熊野の海賊とされる。大鉄甲船を操り毛利水軍を第二次木津川海戦で撃破したことは有名。のちに秀吉に仕え、関ヶ原の際に西軍に属したため責を取って謹慎、東軍に属した子の守隆の嘆願で助命が決定したが、その報が届く直前に守隆の家臣に欺かれた形で自刃した。
写真は三重県鳥羽市の常安寺にある九鬼一族の墓で、中央が嘉隆、その向かって左隣が守隆の墓である。なお、嘉隆の自刃地である答志島(鳥羽市答志町築上)には、彼の首塚がある。
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