三好長慶一族の墓

堺市の南宗寺にある三好一族の墓。
☆関連武将☆

十河一存(そごう かずまさ)    ? 〜1561

「かずなが」とも読む。三好長慶の実弟で、讃岐一円を統治した三好家筆頭の猛将。「鬼十河」と恐れられたが、若くして病死した。この三好一族の墓群の中に彼の墓もあるのだが、どの墓碑がそうかは不明(聞き忘れた)。追々調査します。

三好長慶(みよし ながよし)  1522〜1564

「ちょうけい」とも読むが、「ながよし」が正しい。元長の嫡男で、利長・範長・長慶の順に改名。通称孫二郎、筑前守・修理大夫を称す。父元長の討死により十一歳で家督を嗣ぎ近畿管領細川晴元の執事から台頭、摂津江口に三好宗三を討ち実権を奪う。しかし嫡子義興ら相次ぐ身内の死と松永久秀の策謀の前に失意のうちに病死。一説にはこれら一連の相次ぐ死は久秀による謀殺とも。

三好元長(みよし もとなが)  1501〜1532

長秀の子で、山城国守護代を務める。弾正少弼のち筑前守を称す。大永六(1526)年に晴元を担いで阿波から挙兵、将軍義晴・細川高国勢を破り足利義維を擁して堺に幕府を開く。享禄二(1529)年、柳本賢治らと争い一時阿波に帰国するが再び堺に上陸、高国を摂津尼ヶ崎に滅ぼした。天文元(1532)年、対立していた晴元方の一向一揆に襲われ、堺顕本寺に敗死した。


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