佐賀鍋島家の墓

☆関連武将☆

鍋島勝茂(なべしま かつしげ) 1580〜1657

直茂の嫡子で通称伊平太または伊勢松、信濃守を称す。初名は信茂、清茂。朝鮮の役で父直茂と共に活躍、関ヶ原でははじめ西軍に属すが父直茂からの急使で東軍に寝返り、急遽帰国し毛利秀包の筑後久留米城、立花宗茂の同柳川城を攻めた。この戦功と父直茂の取りなしで旧領を安堵され、大坂の役や島原の役へも参陣した。

鍋島直茂(なべしま なおしげ) 1538〜1618 

清房の子で後の肥前佐嘉藩祖。加賀守を称し、名は信昌・信生とも。斜陽の龍造寺家を最後まで支えた名参謀。今山の合戦において大友軍六万の大軍を佐嘉城に迎え撃ち、奇襲で先手大将大友親貞を討ち取ったことは有名。主家の滅亡後には巧みに秀吉・家康に取り入り、関ヶ原では東軍に属した。龍造寺隆信の戦死以来、事実上龍造寺氏に代わって佐嘉を支配、龍造寺高房没後は名実共に佐嘉藩主となった。


BACK  TOP