里見忠義の墓

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里見忠義(さとみ ただよし) 1594〜1622

義康の子で通称太郎、安房守、従四位下侍従。忠義の「忠」の字は将軍秀忠からの一字拝領。義康の早死によりわずか十歳で家督を継ぐ。妻が大久保忠隣の孫であったことから忠隣失脚の際に連座して改易となり、伯耆倉吉へ配流され失意のうちに没した。没時に近臣八人が殉死したことから、のちに『里見八犬伝』のモデルとなったのではないかとされる。
写真は鳥取県倉吉市の大岳院にある忠義の墓で、同墓所には里見家の重臣正木大膳・堀江能登守の墓もある。法名は「雲晴院殿心叟賢涼大居士」。なお、八犬伝のモデルとする根拠は、殉死した近臣八人の法名全てが「賢」の字を持ち、「八賢士」と呼ばれたことによる。

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