大谷吉継の墓

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大谷吉継(おおたに よしつぐ)  1559〜1600 

近江伊香郡の出自で大谷吉房の子と伝えられ(異説あり)、通称は紀之介、刑部少輔を称す。秀吉の近侍から次第に頭角を現し、越前敦賀五万石の城主となる。娘が真田幸村の妻で、名は吉隆とも。地味ながらも親友石田三成との義に生き義に殉じた悲運の名将。関ヶ原の際に隣に陣した脇坂安治ら四将の裏切りに遭い、奮戦ののち自刃。巷説では持病のハンセン氏病が悪化して盲目であったと伝える。
写真は岐阜県関ヶ原町の山中にある吉継の墓で、隣には彼を介錯したという湯浅五助の墓が並んでいる。他に滋賀県米原町にも 吉継のものと伝える墓 がある。法名は「渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門」。

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